パルプ・フィクション_今さら魅力を説明するのも難しい【8点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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クライムサスペンス
クライムサスペンス

(1994年 アメリカ)
クエンティン・タランティーノ監督の代表作。とにかくカッコよくて面白くてスゴイ映画なんだけど、あらためて魅力を説明しろと言われると、これがなかなか難しかったりする。いまだに熱狂してるのは、実はオジサンだけなんじゃないかとも思ったりで。

感想

先日、同い年の友人と映画の話になった。

友人と言っても古くからの付き合いではなく、最近になって知り合いになり、ウマが合ったのでプライベートでも会うようになった仲だ。

二人とも映画が好きという流れで、私は自然に本作の名前を挙げたのだが、まさかの「何それ?知らない」という言葉が返ってきた。

最近映画ファンを自覚し始めたばかりの若い子の「知らない」ならまだわかる。しかし40代半ばの映画好きが『パルプ・フィクション』を知らないなんてありえるのか?

ともかく、パルプ・フィクションを知らない中年映画ファン相手に本作の魅力を説明しようとしたのだが、これが思いのほか難しい。

この映画、もはや名作であることが当たり前すぎて、何が良いのかファンですらよく分からないのだ。

結局、「パルプ・フィクション」の魅力の1割も伝えることができず、「今度時間があったら見てみるね」という気のない返事だけを引き出して終わったのだが(この返事の後に鑑賞されたためしがない)、あらためてこの映画の魅力って何なんだろうという思いが脳内を巡り始めた。

本作の日本公開は1994年10月。私は中学2年生だった。

中二病という言葉があるとおり、この年齢では何となく好きだったことを、子供の遊びレベルで終わらせるのか、背伸びして本格的な趣味の世界に突入するのかの分岐点を迎える。

その絶妙なタイミングで『パルプ・フィクション』に遭遇できた私たちの世代は、ある意味で幸運だったし、ある意味では不幸だった。まさに中二病を拗らせる原因となった映画だからだ。

『パルプ・フィクション』の魅力とは何か?

  • 理解できず脱落する奴も出る難解な(かといって難解過ぎない)構成
  • すでに過去の人だったジョン・トラボルタ、飽きられつつあったブルース・ウィリスといった「ダサい俳優」を大々的にフィーチャーするという、一周回ってセンスを感じるキャスティング
  • 震えるほどかっこいい選曲(しかも最新曲ではなくオールドナンバー)
  • 人の死を軽く扱う、記録的なFワードの多用といった、適度な不良性

簡単に書き出すとこんな感じだが、これら個々の構成要素以上に「この映画を理解できれば一端の映画ファン」「この映画が好きな自分が好き」と錯覚させるようなファッション性を帯びていたことが強い。

そのファッション性の源流って何かと言うと、監督の「好き」をひたすら追求する姿勢と、アカデミー脚本賞を受賞したほどの高度な構成を、全然肩ひじ張った様子もなく作っていることだ。

まったく迎合する様子もないのに、それでもチャチャっとスゴイものを作ってしまえるクエンティン・タランティーノ監督自身が、当時のポップカルチャーのアイコンになっていた。

T.M.Revolutionのヒット曲『WHITE BREATH』でも「タランティーノぐらい レンタルしとかなきゃなんて」という歌詞がありましたな。古い話でごめん(笑)

この監督が面白いと感じるものを、自分も「分かる!」と言いたいと世界中の映画ファンに思わせた。それこそがこの映画にかかったマジックなのだ。

なので直撃世代としては、当時の状況を知らない世代が本作をどう受け止めるのかには疑問もある。

ジョン・トラボルタとブルース・ウィリスという、並みのインディーズ監督ならば絶対に使わなかったダサイ俳優にエッジの立った役を演じさせたのがいかに凄い発明だったかは、当時の空気感なしには伝わらないだろう。

会話劇も同じくだ。

登場人物たちが本筋の進行とは無関係に、思い思いの会話をするというシナリオは当時斬新だった。

タランティーノの監督デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992年)の冒頭の「ライク・ア・ヴァージン」論争やチップ論争がその原型とも言えるが、『レザボア~』の場合、「こいつはケチ」「こいつは穿った物の見方をする」「こいつは仕切りたがり」といった各キャラの性格を端的に伝えるという作劇上の機能があり、また本筋に入ると無駄話はなくなった。

本作のように、本筋とは無関係な無駄話が延々と続き、よくよく考えると話が全然進んでいないということはなかったのだが、これもまたガイ・リッチーやリチャード・リンクレイター、ケヴィン・スミスらがすぐに模倣したので、その革新性は薄れた。

あまりに強すぎる影響力ゆえに陳腐化してしまうという、革新作の宿命を背負っているのだ。

こうしてツラツラと書いてみて気づいたのだが、友人に『パルプ・フィクション』の魅力を伝えられなかったのは、公開当時の空気感が分からない人には伝わらない映画だからだ。

今の若い人が本作を見ると、「面白いのは面白いけど、オジサンたちが言うほどの映画だろうか」という感想が返ってくるに違いない。

一つの映画を越えてカルチャーそのものになった作品を、後追いで理解させるのは難しいということを思い知った。

なので、リアルタイムで映画館に行って体感するという経験は大事なんだなとあらためて思った次第である。

・・・ってどんな締めだ(笑)

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コメント

  1. 匿名 より:

    やはり同年代でしたか ヘタをすると同学年かもしれません  
    確かにこの映画をプレゼンしろと言われてもなんと言っていいやらですな