(2001年 アメリカ)
正しい目的のために努力をしても必ずしも報われるものではない、むしろ重大な失敗に繋がることもあるという、人の世の重い真理を突き付けられた良作でした。演技的にはジャック・ニコルソンの独壇場で、正気と狂気が入り混じった様や、ラストでの豪快な人格崩壊など目が離せませんでした。
殺人課の刑事ジェリーが引退を迎えた日に凄惨な少女殺人事件が発生し、ジェリーは被害者の母親に犯人逮捕を約束した。その後まもなく容疑者は逮捕されたが、取り調べ中に自殺。周囲は捜査終了と考える中、違和感を覚えたジェリーは引退後にも独自捜査を続ける。
1960年カリフォルニア州出身。トム・クルーズと共演した『タップス』(1981年)で映画デビュー。海軍兵学校での少年兵たちの反乱を描いた同作においては、ショーン・ペンが穏健な青年、トム・クルーズが攻撃的な青年と、現在の目で見ると不思議な配役がなされていました。キャリア初期には普通の若者役を演じることが多かったのですが、徐々に演技に凄みが出てきて、アカデミー主演男優賞を二度受賞、世界三大映画祭のすべてで主演男優賞の受賞経験を持つという世界的な評価を獲得するに至りました。
『インディアン・ランナー』(1991年)で監督デビュー。ジャック・ニコルソンは『クロッシング・ガード』(1995年)に続く二度目の起用となります。
1937年ニュージャージー州出身。両親の晩年の子であり、年の離れた姉のいる家庭環境で育てられたが、後に、姉と教えられていた人物こそが実の母で、両親だとされていたのは祖父母だったということが判明しています。いろいろ訳アリですね。
アクターズ・スタジオで演技を学んだ後に『クライ・ベイビー・キラー』(1958年)で映画デビュー。そこでの演技がB級映画の帝王ロジャー・コーマンの目に留まり、若手の頃には低予算映画に多く出演しました。
『イージー・ライダー』(1969年)でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。『カッコーの巣の上で』(1975年)でアカデミー主演男優賞受賞。アカデミー賞においては現在に至るまでに主演8回、助演4回の合計12回ノミネートされており、これは男優としては最多ノミネート記録となっています。
イカツイ見た目とは裏腹に温和な人物のようで、ショーン・ペンとロビン・ライト夫妻からはその人間性を賞賛されていました。
ショーン・ペンの中で当初より確定していた配役はジャック・ニコルソンのみであり、残りは無名俳優を使うつもりでいたのですが、準備期間が短かった上にロケが多く天候に振り回されかねない企画だったために監督が演技指導に労力を割く余裕がなく、ほっといても演技ができるベテランを手っ取り早く使うことにしたようです。それにしても、これだけのメンツをちゃちゃっと揃えられるショーン・ペンの人脈すごすぎでしょ。
フリードリヒ・デュレンマットとはスイスを代表する劇作家、小説家です。1921年ベルン州出身。ベルン大学とチューリッヒ大学で哲学を専攻し、21歳で処女作『クリスマス』を執筆。絵画も得意だったため文学と美術のどちらの道に進むべきか迷った後に、25歳で作家活動に入りました。1940年代末から60年代にかけて発表した喜劇によって世界的な名声を獲得し、また推理小説でもベストセラーを出しました。
本作の原作となった『約束』は、彼が脚本を担当した映画”Es geschah am hellichten Tag”(1958年)の結末に満足できなかったので、その脚本を元に執筆した作品だということです。
本作は執念が原因で破滅する男の物語なのですが、その執念が誠実さに起因していることに、人の世の難しさが現れています。
主人公のジェリー(ジャック・ニコルソン)は本日退職する殺人課の刑事です。優秀だった彼の引退を祝おうと課が総出でパーティーを開いてくれているのですが、その最中に相棒のスタン(アーロン・エッカート)と上司のエリック(サム・シェパード)が険しい顔をして話しています。聞くと、少女の惨殺体が発見されたらしい。スタンとエリックからはパーティーに残るよう言われましたが、「自分が力になれたら」とジェリーは最後の現場へと向かいます。
現場は凄惨を極めており、被害者少女の身元は分かっていたものの、こんな状況は説明できないと現場にいた全員が遺族への連絡できないでいました。「俺がやる」と名乗り出るジェリー。そして、少女の母親(パトリシア・クラークソン)からは「絶対に犯人を捕まえると約束してくれ」と迫られます。ここでの約束とは一般的な「プロミス”promise”」ではなく、より重い「プレッジ” pledge”」でした。ここでジェリーは遺族との重い約束を交わすこととなります。
これが本作の導入部です。ジェリーは後に犯人探しによって狂っていき、悪人扱いを受けることとなるのですが、その端緒は彼の誠実さにありました。もし彼が浮かれ気分のまま退職パーティーに残り続けていれば、遺族への連絡という難しい役回りを買って出ていなければ、約束をその場限りのこととしてアッサリ忘れてしまうような軽薄な男であれば、後の不幸は訪れず、平穏な老後を送れていたはずでした。
善意が結果的に破滅へと結びついていき、本人も周囲も不幸にしていくという悲しい寓話。それは、善悪に明白なボーダーはないという世の真理を突いていました。
ジェリーを独自捜査にのめり込ませたのは、遺族との約束だけではありませんでした。家庭もなく仕事一筋に生きてきたジェリーが退職日を境に地位も居場所も失うという不安がくだんの約束と結びつき、「捜査せねば」と「捜査したい」が彼の頭の中でないまぜの状態となっていました。
これは非常によく出来た構成なのですが、序盤にて精神科医(ヘレン・ミレン)の元にジェリーが訪れる場面を挿入し、彼の精神状態が不安定であると客観的な指摘をさせています。これにより、ジェリーの内部にはすでに狂気の芽があったことが観客に対して示されます。
そんな不安定な精神状態の一方で、ジェリーの独自捜査は極めてロジカルでした。警察が見落としている点を丁寧に広いあげ、点と点を線で結んでいく地道な作業は結果から振り返ると極めて的確であり、「捜査をする」という行為において、彼は的を外していませんでした。そのことがジェリーを更に追い込むこととなるのですが。
彼には正しい捜査をしているという自信があり、実際にその通りだったからこそ、捜査への固執という狂気を助長していました。さながら、ギリシア神話のカッサンドラーのような悲劇の予言者の感覚にも囚われたのです。もしどこかで小さなミスを犯し、「ほらジェリー、君の見立ては間違ってただろ」と指摘されて赤っ恥をかく場面があれば彼は引き返せたのかもしれませんが、彼は正しかったのです。
ジェリーは正しい捜査をしていました。そして、正しい場所に犯人逮捕のための罠を仕掛けていました。ここで罠を仕掛けるという行為は冒頭の釣りの場面と対応しており、釣り人であるジェリーは、さながら大物を一本釣りする感覚で少女を餌に待ち構えていたということになります。しかし運命のいたずらから真犯人は罠へと引き寄せられる一歩手前で交通事故死し、姿を現わすことは永遠にありませんでした。
ジェリーの地道な捜査の集大成となるはずのクライマックスは、公開処刑の場へと変貌します。スタンからは「昔はすごかったのに、今はあんな風になっちまって…」と呆れられ(間違いを犯してるのはお前だろうがとつっこんでいるのは画面の向こう側の観客だけ)、娘を餌に使われたロリ(ロビン・ライト)からは人でなし扱いを受け、彼は社会人としての信頼をすべて失ったのでした。
正しい目的のために努力し、正しい筋道に立っていても失敗することがある、周囲を敵に回すこともあるという残酷な結末でしたが、こちらもまた世の真理を映しているようでした。