(1993年 アメリカ)
ストーリーらしきものがなくプロットの積み重ねで成り立っている作品。この雰囲気を好きになれるかどうかで決まる映画なのですが、日本人にとっての青春の原風景とはあまりに違うので、残念ながら心に響くものがありませんでした。
1976年のテキサス。田舎の高校には先輩から新入生への洗礼の儀式が受け継がれていた。新入生は必死に逃げつつ高校生活に期待し、上級生は洗礼を行いながらもこれからの未来に不安も抱いている。そして夏休み初日の夜、学生たちはパーティの計画を立てる。しかし計画はなかなかうまく進まずハプニングだらけ。ロックン・ロール、アルコールにドラッグと自由奔放に青春を謳歌する若者たちのめまぐるしい一夜の物語。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0
タランティーノが生涯のトップ10に入れていることを始めとして、非メジャーの低予算映画ながらアメリカでは高い人気を誇っている作品なのですが、私には全然ピンときませんでした。
本作にストーリーらしきものはなく、プロットの積み重ねで成り立っているような作品なので、目の前の切り取られた光景を楽しめるかどうかが勝負の作品だし、そのためには個人の持つ青春の原風景と重なる部分があるかどうかが大きいのだろうと思うのですが、アメリカの高校生活は日本の高校生活とはまるで違っていましたね。
ジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』(1973年)やケヴィン・コスナー主演の『ファンダンゴ』(1985年)なども、その評価の割に私は楽しめなかったので、本作の出来が悪いというよりも文化的な背景に違いがあると楽しむことが難しくなるジャンルなんだろうと思います。
ここで日米の学生の大きな差って何なんだろうと考えると、やはり受験勉強の存在なのかなと思いました。
本作で描かれるのは高校卒業を控えた高3と、高校入学を控えた中3の姿です。彼らは、多分ここが人生の節目だとは感じているけど、何をすればいいのかはよく分からない。だからとりあえず友達と一緒に居よう、みんなが集まっている場所へ行こうということで、何をするわけでもないが自然発生的に集まって、みんなで一夜を過ごしているわけです。
誰も口には出さないんだけど、将来に対する漠然とした希望や不安を抱えて、今同じ空気を吸っているという感覚。これがアメリカ人にとっての青春の原風景なのでしょう。
ただし、日本人にはこの感覚まったくありません。理由は、中3、高3と言えば受験勉強をやっているから。仲間のことではなく、自分が次の春にどこへ行くんだろうと、そのことしか考える余裕がありません。友達と過ごす時間にはどこか後ろめたさすらありました。そんな時間があるなら勉強しなきゃと焦っているから。
試験当日の一発勝負で自分の将来を勝ち取る、そのために何か月も勉強をして備えるという日本の受験制度って私は好きなので、これを否定する気はありません。これはこれで子供の通過儀礼としては意義があるし、競争としては極めてフェアーで貧富の差を埋める方法として最適だと思います。ただし、自分一人で戦わねばならない寂しい制度ではあるんですよね。青春の最後の1ページで仲間という存在が消えてしまうという。
本作でアメリカの青春を見て、日本の青春ってちょっと残念だなと感じました。
本作は後の大スターが何人も出ていることでも有名な作品であり、マシュー・マコノヒー、ベン・アフレック、ミラ・ジョヴォヴィッチ、レニー・ゼルウィガーらが出ています。
うちレニー・ゼルウィガーは、チアリーダーが新高1女子をいびる場面で一瞬だけ登場する役柄で、セリフすらないのでほとんど出ているうちに入りません。
他方で、あとの3人は結構がっつり出ています。
まずベン・アフレックはダブってるアホの役。後に「地球上でもっともセクシーな男性」に選ばれ、デアデビルやバットマンを演じることになる俳優とは思えないほど、本作のアフレックはダサくてブサイクです。でもちゃんと目立っており、後の人気俳優の片鱗は見せています。
ミラ・ジョヴォヴィッチはヤク中高校生の役。ほとんどセリフがなく、主要なキャラクターにも絡んだりしない脇役の一人に過ぎないのですが、17歳当時から美貌が突出しており、画面の片隅に映るだけでもその瞬間の注目をかっさらっていくような存在感がありました。彼女もまた、後のスターの片鱗を見せています。
そして最強だったのがマシュー・マコノヒーです。彼が演じるのはアラサーの大人なんだが高校生に絡みたがるという、田舎町によくいるちょっとイタイお兄さん。当然脇役なのですが、彼が登場する場面は全部持って行っています。中盤からこいつが主役なのかと思ってしまうほど、他の俳優を完全に食ってしまっていました。
本作からほんの数年後、マコノヒーは『評決のとき』(1996年)や『コンタクト』(1997年)などの大作の主演に引っ張りダコとなるのですが、本作での堂々たる存在感を見れば、大手スタジオに目を付けられたのも当然のことだなと思います。