(1996年 アメリカ)
37年前に失踪した悪徳保安官の白骨死体発見に端を発した群像劇なのですが、歴史問題・人種問題という社会的な切り口をミニマルなドラマに落とし込み、そこに犯罪サスペンスをトッピングするという驚異的な構成の物語となっています。ただし冗長で面白くはないので、何らかの刺激を期待すると裏切られます。良作だけど見る人を選ぶ映画だと思ってください。
テキサスの国境の街リオ。支配階層を白人が占めながらも街の住人の大半は有色人種という歪なこの街で、白骨化した死体が発見される。死体の身元は37年前に失踪した保安官チャーリー・ウェイド(クリス・クリストファーソン)と確認され、現職保安官サム(クリス・クーパー)は37年前の殺人事件の捜査を開始する。
1950年ニューヨーク州出身。大学卒業後にB級映画の帝王ロジャー・コーマンの下で『ピラニア』(1978年)、『宇宙の7人』(1980年)などの脚本を手掛け、そこで得た資金で自分の企画を監督するようになりました。
学生運動の理想を10年経っても捨てきれない7人を描いた初監督作『セコーカス・セブン』(1980年)が評価されたことでニューヨーク・インディーズの代表監督と見做されるようになり、その評判を聞きつけたパラマウントがセイルズへの出資を決定。
お嬢様と不良青年の恋を辛口に描いた青春ドラマ『ベイビー・イッツ・ユー』(1983年)がそれなのですが、映画を取り上げられて勝手に編集されるわ、その修正版の評判が悪かったので結局ディレクターズ・カット版に戻されるわ、ロクに宣伝もされずに公開されるわとさんざんな経験をしたため、以降はスタジオとの距離を取るようになりました。
小説家としての評価も高いのですが、物書きとしてもっとも稼げるのは映画の脚本であるということで、メジャー作品の脚本のリライトをして得た金を自身の監督作の資金にするという流れで動いています。本作前後にはロン・ハワード監督の『アポロ13』(1995年)とギレルモ・デル・トロ監督の『ミミック』(1997年)の脚本に参加しています。
監督のジョン・セイルズが上記の通りの人なので、本作は限りなく自主製作映画に近い作品なのですが、その小さな製作規模には不釣り合いなほど豪華キャストが集結しています。
日本における本作の扱いは不遇です。全米公開は1996年6月だったのですが日本での劇場公開はなされず、何年経っても本邦初公開の目途が立たないものだから、今はなきプレミア日本版のジョン・セイルズ特集で本作のオチが書かれてしまうということもありました。その時点で日本人はまだ誰も見ていなかったのに。
2000年1月になってようやくVHSが発売され、一時期はDVDも出ていたのですが、スタンダードサイズ(オリジナルはシネスコ)+日本語字幕は焼き付けでon/offができないというVHSの素材を流用したかのような劣悪な商品でした。
私はVHSリリース時にレンタルをしていたのですが、なぜか見る気が起こらず一応ダビングだけして返却しました。そのうちビデオテープは行方知れずとなり、本作の存在も忘れていたのですが、昨年秋に自宅にある大量のビデオテープをHDDに移管する作業中に、たまたま本作のビデオテープが発掘されて約20年越しの鑑賞となりました。まさにウェイド保安官状態。
ここで超余談ですが、昔録ったビデオテープのコピーをするために中古ビデオデッキを買わなきゃという方にお勧めなのは、VHS一体型HDDです。
中古ビデオデッキよりも安く売られていることが多い上に、2006年頃までは製造されていたのでビデオデッキよりも状態が良く、さらにはHDD一体型なのでダビング作業が格段に楽ということで、もう良いことしかありません。
あらすじだけを見ると37年前の殺人事件を追うミステリーのようにも感じられるのですが、登場人物を俯瞰すると主人公サム(クリス・クーパー)の父バディ(マシュー・マコノヒー)がどう考えても怪しいし、監督はその点を隠そうともしていないので、ミステリー要素はほとんど追及されていません。ミステリーを期待して見るとかなりの肩透かしを食らうので、この点には注意が必要です。
ではこの映画で何が描かれているのかというと、ボーダーラインの曖昧さです。
冒頭では、エリザベス・ペーニャ扮する高校の歴史教師ピラーがメキシコ系住民寄りの歴史を教えようとしたところ、「それじゃあ俺らが加害者のように見えるじゃないか」と白人の保護者達から猛反発を受けるという場面があります。
この地域は支配階層にいる白人がマイノリティであり、メキシコ系とアフリカ系が人口の大半を占めています。歴史上の勝者と敗者、加害者と被害者が複雑に入り混じった社会の混沌の中で、あちらを立てればこちらが立たずという難しい状況が発生しているのです。
それは善か悪か、正解か不正解かで色分けできるような単純なものではなく、あらゆるボーダーが曖昧で、立ち位置によって色合いが変わってくるという難しさを持っています。
37年前の殺人事件もまた、法や正義できっちりとした線を引けないところで起こったものでした。
殺されたウェイド(クリス・クリストファーソン)は人種差別主義者で、私利私欲のために権力を行使するという絵に描いたような悪徳保安官。法律の上で殺人は犯罪だが、ウェイドの排除こそがその時の正義だった。だからウェイドは殺されたのです。
その殺人事件の後、バディとの関わりの深かったメルセデス、オーティス、ホリスの3人がいずれも地元の名士になった点から考えると、ウェイドに代わって保安官という権力を握ったバディが彼らの後ろ盾になって特別の便宜を図り、必要に応じてそのライバルの排除などを行ってきたことが想像されます。
バディもウェイドと同じく権力を半ば私物化し、法に基づかない判断なども下していたのですが、バディの場合はこの地域特有の事情にマッチしていたので、批判ではなく賞賛へと繋がったのでしょう。
それは政治的腐敗と言われるかもしれないが、バディは3人の仲間を使ってメキシコ系、アフリカ系、アングロ系それぞれのコミュニティをがっちり押さえており、ほっとくと分断されかねない地域を統合する要の役割を果たしていたのです。
そして真面目に職務をこなすサムが父バディと比較されて「イマイチだ」などと言われるのは、バディが正解は出ないと観念した上での微妙な采配を振るっていたのに対して、サムは法に基づく正解を出そうとしているためだと思われます。
冒頭での歴史教育問題にしたって、もしバディが現役で、メルセデス、オーティス、ホリスの3人にかつてのような勢いがあれば、圧力と懐柔を使い分けてうまくその場を収めたはずです。
しかし現代は何が正解かを求めてみんなで議論するような時代です。見ようによって景色の変わる歴史問題に完全な正解などないのに、ありもしない正解を延々と議論する様は、リーダーの一声ですべてを決めていた老人達からすると、なんと非生産的な活動をしているのかというところでしょう。
この殺人事件からもうひとつ浮かび上がってきたのは、公然の秘密が固く守られていくという田舎町の現象です。
サムがいろいろ聞き取りをしていると、どうも親世代はみんなウェイドの身に何が起こったのかを知っているっぽい。何を聞いても「あ~、あれか。何だったっけなぁ…」と言ってはぐらかされている感じが常にあります。しかも事件当夜に口裏合わせがあったという雰囲気でもなく、暗黙の了解で「この件には二度と触れるな」ということになって今日まで来たような。
先日観たニコラス・ケイジ主演の『ヴェンジェンス』(2017年)でも描かれていましたが、殺人が起こったことにみんな薄々気付いているのに、そうではないシナリオが用意されたので地域全体がそれを受け入れて事件を闇に葬るという様には、やはり不気味なものがあります。
ヴェンジェンス【6点/10点満点中】面白くはないが心には残るビジランテもの
公然の秘密と記憶の封印。これがもたらしたのは世代の断絶でした。
サム、ピラー、デルの3人はそれぞれに親との確執を抱えています。彼らの親(バディ、メルセデス、オーティス)は若い頃にウェイド殺しに直接的もしくは間接的に関わっており、それが人生のターニングポイントだったために、自分達の人生について子供に説明できていませんでした。
そのために子の世代は親が何を考えているのかが分からず、それが反発という感情になって今に至っているという経緯があります。
そして37年前の事件の再捜査という形で過去を掘り返すことで、それまで嫌悪していた親にどんな事情があったのかを知るという物語が本作の横軸となっています。
本作はかなり極端な例ではあるのですが、一般的にも親が子供に対して語らない情報の方が多いように思います。かく言う私も3人の子の親であり、日々歯を食いしばって耐えているしがない勤め人ですが、自分の子供に対しては威風堂々とした職業人を装っているし、多分、この図式を崩すことは未来永劫ないと思います。
こんなに辛いことがあったとか、こんな風にプライドを潰されたなんて話を我が子に対してすることが、自分にとっても子供にとっても決してプラスには働くはずがありませんからね。
ただしこうした秘密も度を越せば世代間の断絶に繋がるわけで、親の事情をまったく知らされずに育った子供達も気の毒です。掘り返されたファミリーヒストリーが彼らにもたらしたのは、親に対する同情と失望の入り混じった複雑な感覚でした。
50年代の人種差別的な空気の中でウェイドという悪徳保安官に悩まされていたことには大いに同情する。その苦労は子供達が今まで想像していた以上のものだったはずです。
しかしその成功の基盤が殺人事件に端を発した世代交代と、その後の不正と癒着の結果だったことを知ると、何となく信じてきた親の立志伝が崩れていくような失望もあります。やはり秘密はよくありませんね。
※ここからネタバレします。
本件で重要だったのは悪徳保安官ウェイドが死んだことではなく、彼と共に消えた1万ドルの行き先でした。主題をうまく誤魔化しながら終盤にサプライズを作るという本作の脚本の出来は見事としか言いようがありません。
実はバディとメルセデスは不倫関係にあり、極貧生活を送る不法移民のメルセデスにバディは1万ドルを渡し、メルセデスはそれを原資にしてレストランを開業して地元の名士にまで登り詰めていたのです。
メキシコ系のメルセデスが不法移民達に辛く当たるのも、白人の金を受け取って大成したという彼女自身の背景から、どこか支配階層に対する迎合があったためのようです。
加えて、メルセデスの娘ピラーの父はバディであったことも判明。若い頃のサムとピラーの交際が強硬に反対されていたのは、実は二人が兄妹だったからなのです。そして、当人であるサムとピラーは知らないだけで、親世代の地元民達は二人の血縁関係を知っていたわけです。
序盤のドラマで感じた違和感が、まさかこんな形で決着するとは思わなかったので驚きでした。本作はアカデミー脚本賞にノミネートされていますが、確かにそれだけの完成度のある脚本だと思います。
ただし決して面白い作品ではないので、その点だけは要注意です。出来は確かに素晴らしいものの、やや冗長で盛り上がりどころもなく、アクションではなくセリフで進んでいく映画なので、退屈はさせられます。