(2018年 アメリカ)
外科医のポール・カージーは、争いごとや暴力沙汰を好まない温厚な男だったが、彼の不在時に自宅を強盗に入られ、妻は死亡、娘は意識不明の重体状態にされてしまった。警察の捜査にも進展が見られない中で、カージーは自衛という手段を考え始める。
1972年生まれ。ニューヨーク大学卒業後に映画界入りし、しばらくはNYの映画業界で働いていたのですが、なかなか芽が出ず1999年にLAに転居。1995年に執筆した脚本を自らの手で製作・監督した『キャビン・フィーバー』(2002年)で次世代ホラー監督として注目を浴び、『ホステル』(2006年)が全米初登場1位となったことからその名が広く定着しました。伝説のゲテモノホラー『食人族』(1980年)のリブート『グリーン・インフェルノ』(2013年)でもホラー監督としての成熟した手腕を見せつけました。
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また、『ホステル』(2006年)がクェンティン・タランティーノに評価されたことから、『グラインドハウス』(2006年)のフェイク予告編『感謝祭』や、『イングロリアス・バスターズ』(2009年)の劇中劇『国家の誇り』を監督。また『イングロリアス・バスターズ』には出演もしています。
近年は非ホラーにも活動の範囲を広げ、キアヌ・リーブス主演のスリラー『ノック・ノック』(2016年)、アンブリン・エンターテイメント製作のファンタジー『ルイスと不思議の時計』(2018年)を監督しています。
1969年生まれ。『ブラッド・ガッツ』(1998年)で長編監督デビューし、汚職警官もの『NARCナーク』(2002年)で注目を浴びました。『NARC ナーク』の出来にいたく感心したのがトム・クルーズであり、完成後の同作に製作総指揮として名前を貸すことで、限定公開しか予定されていなかった同作が全世界でリリースされるようにしました。続いて、デヴィッド・フィンチャーが降板した『ミッション:インポッシブル3』(2006年)の監督にも抜擢されたのですが、トム・クルーズと意見が合わずに降板。同作はJ・J・エイブラムスに引き継がれることとなりました。
以降は『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』(2006年)、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』(2010年)、『THE GREY 凍える太陽』(2011年)で脚本・監督を務めており、キャリア開始時点から一貫して男性映画を得意としています。
本作はカーナハンが監督も兼任する予定で参加していたのですが、2012年頃に降板。クレジットされている脚本家はカーナハンのみですが、実際には9名の脚本家の手でリライトされており、そのうちの一人は、『ペイチェック 消された記憶』(2003年)、『MEG ザ・モンスター』(2018年)のディーン・ジョーガリスだったようです。
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『狼よさらば』(1974年)に始まるデス・ウィッシュシリーズで主人公ポール・カージーを演じたのは男の中の男チャールズ・ブロンソンでした。初老のアクションスターが主演を務めるという伝統に則り、本作ではブルース・ウィリスがキャスティングされています。
1955年生まれ。高校卒業後に警備員、運送業者、私立探偵など複数の職業に就いた後、俳優としてニューヨークで下積みを経験し、オフ・ブロードウェイの舞台などに立っていました。
1984年頃にLAに転居してからはテレビ俳優となり、オーディションで3000人の中から選ばれた『こちらブルームーン探偵社』(1985年~1989年)の主演でコメディ俳優としての評価を確立しました。続いて、アーノルド・シュワルツェネッガー、クリント・イーストウッド、リチャード・ギア、メル・ギブソンらに次々と断られた末にオファーが来た『ダイ・ハード』(1988年)の主人公・ジョン・マクレーン役でコメディ俳優の枠を超える評価と、国際的な知名度を獲得。以降はハリウッド有数のマネーメイキングスターとして多数の大作に出演しました。
彼のキャリアが独特なのは、第一線に立つスターでありながらインディーズ監督との仕事を積極的に進めていたことであり、比較的低予算で製作された『パルプ・フィクション』(1994年)に出演したり、ディズニーが出資を渋る中でブルース・ウィリスが積極的に製作を働きかけたと言われる『シックス・センス』(1999年)などがその成果となっています。今でこそ、スター俳優が光るものの部分のある低予算映画にギャラを削ってまで出演するということは珍しくなくなっていますが、それを初めてやったのはブルース・ウィリスだったと思います。
本作には知名度と実力のある脇役が配置されており、演技の幅に問題のあるブルース・ウィリスを補完する役割を果たしています。
後にエドガー賞も受賞するアメリカの小説家ブライアン・ガーフィールドが、『デス・ウィッシュ』を1972年に発表。1974年にはディノ・デ・ラウレンティス製作、チャールズ・ブロンソン主演で映画化されて大ヒットしました。
後に映画化権はメナハム・ゴーラン率いるキャノン・フィルムズの手に渡って、しつこくシリーズ化。NYで強姦被害に遭ったカージーとその娘がLAに転居すると、そこでも強姦に遭うという泣きっ面に蜂どころの話ではない第2弾『ロサンゼルス』(1982年)、旧友からのSOSを受けてカージーが暴走族と全面抗争を繰り広げる第3弾『スーパー・マグナム』(1985年)、新たな恋人との新生活を満喫していたが、その娘が麻薬で命を落としたために再び銃を手に取る第4弾『バトルガンM-16』(1987年)、新たな婚約者を殺されてまたしても銃を手に取る『狼よさらば 地獄のリベンジャー』(1994年)と、ポール・カージーこそが疫病神じゃないかと思う程の不幸の乱れ打ち状態で、シリーズは第5弾まで続いたのでした。第3弾と第4弾に至っては邦題が銃の名前でやる気まんまんじゃないかとか言わないでくださいね。
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なお、小説版『デス・ウィッシュ』には『Death Sentence』という続編があって、ジェームズ・ワン監督の『狼の死刑宣告』(2007年)として映画化されています。こちらはジェームズ・ワンの小慣れた演出に裏打ちされた良作であり、リベンジものとしては上位クラスの仕上がりとなっています。
良きビジネスマンあり良き家庭人でもある主人公の家族が、何の落ち度もないのに犯罪者に襲われる。これが『デス・ウィッシュ』の名を冠する作品群に共通する構成要素であり、前半でいかに理不尽な目に遭わされるかが、後半に向けた跳躍力に繋がるという構造になっていました。『狼よさらば』(1974年)はこの点で非常に優れた映画で、カージーの妻と娘が暴漢に襲われる場面の不快度数はかなりのものでいた。
そこに来て本作です。『ホステル』(2006年)や『グリーン・インフェルノ』(2013年)など、人がいたぶられる映画を得意としてきたイーライ・ロス監督だけに『狼よさらば』をも上回る超絶不快ムービーになるんだろうという期待があったのですが、蓋を開けてみると意外なほどおとなしかったので、後のバイオレンスの助走としては不十分でした。このパートはもっと徹底的にやるべきだったと思います。
『狼よさらば』はアメリカン・ニューシネマの影響も色濃かった時期の製作だけに、全編を通して寂寥感のようなものが漂っていました。ポール・カージーは犯罪者への怒りから自警団活動を始めるのですが、肝心の真犯人に迫ることはできず、街にはびこる犯罪者を手当たり次第に仕留めていくのみ。警察でも突き止められなかった真犯人に一市民が辿りつけるはずがないという究極のリアリティがこの展開には込められており、本丸である家族の不幸に対して父親がどれほど捨て身の行動をとっても何のケジメもつけられないという点に、70年代らしい寂寥感が宿っていました。
ただし、この展開は不合理でもありました。動機と行動に不整合が生じており、観客が直感的に理解しづらい話となっていたのです。そこで『ロサンゼルス』以降は明確なターゲットに向けて復讐をするという形に軌道修正がなされました。
そこに来て本作ですが、ビジランテ行為で街のダニ掃除をしつつも、本丸である妻子の仇にも近づいていくという定番のリベンジものの形式となっており、話の流れはスムーズです。ついに辿り着いた犯人に対して、医療知識を用いた拷問する場面では適度な爽快感もあって、リベンジものの醍醐味をよく分かってらっしゃるなと感心しました。
妻子を失った当初のカージーは、これからどうやって生きていけばいいのかというレベルの絶望感に包まれていましたが、ビジランテ行為を開始したことで精神の均衡を保てるようになり、精神科医に対しても「ぐっすり眠れるようになりました」と言えるレベルにまで回復しました。
妻子の復讐というテーマはちゃんと頭にありつつも、世間からの賞賛を受けながら悪党をぶっ殺すということの楽しさ、暴力の魅力に飲み込まれていく様が実にうまく描写されており、後半ではほぼサイコパスになっているという辺りは、『狼よさらば』を越えて、『デス・ウィッシュ』という作品が本来持つテーマを的確に捉えたように感じました。銃を持って夜の街に出ていくことが、楽しくて仕方なくなっているのです。
そういえば、ちょっと前にテレビで見た『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で印象に残った話がありました。その回は2秒失神KOで全世界の笑いものになった元ヤン格闘家・黒石高大が登壇していたのですが、ヤンキーとして生きることはとにかく気持ち良い、自分が街を歩くと人が勝手によけてくれることが快感という話がありました。生涯、一市民として生きてきた私としては「なるほど~」と目から鱗が落ちまくった話だったのですが、暴力をちらつかせながら生きることの快感ってまさにそこなんでしょうね。
銃など撃ったことのないカージーがグロックを入手し、それを人に向けると「頼むから撃たないでくれ」と相手が完全にこちらの言いなりになる瞬間の快感。それまで暴力と無縁の人生を送り、むしろ暴力に怯える側だった人間こそ、この快感に出会うとハマってしまうんだろうなと思います。
そして、『狼よさらば』にはいなかった弟・フランクの存在が、ここに来て活きてきます。フランクは服役経験を持ち、怖い社会の一端を垣間見たこともある人物だと思われます。善良な市民から自警団へと短期間で振り切れたポールと違って、暴力や裏社会の怖さを長年に渡って見聞きしてきたからこそ、「そっちの世界に行ってはいけない」とポールを引き留めようとします。フランクという対称軸の存在により、ポールの異常性をより際立たせた構成はよくできていました。
高い構成力を持つイーライ・ロスの手腕により、リベンジものとしてはよくまとめられています。暴力に対する考察も有効に機能しており、全米公開時に巻き起こった「この映画は銃による自衛を支持している」みたいな表層的な論争は的外れだったと言えます。 ただし、犯罪者に対する怒りを観客側も共有できるほどのレベルで犯罪被害を描くことができておらず、それが感情的なリミッターになっているような気がしました。『狼よさらば』と見比べた時に、印象に残るのは断然『狼よさらば』の方だと思います。