ゴースト・オブ・ミシシッピー_ただの生真面目映画【6点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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実話もの
実話もの

(1996年 アメリカ)
人種問題を扱ったザ・良識派な作風で、作りもいたって生真面目。題材の良さもあってそれなりに楽しめるが、それ以上の作品にもなっていない。

感想

劇場未公開・未ディスク化作品

ロス暴動の影響か、90年代は人種問題に触れた映画が多く製作された時代だったが、本作もその中の一作。

ロブ・ライナーが監督し、当時スターだったアレック・ボールドウィンとウーピー・ゴールドバーグが共演、敵役のジェームズ・ウッズはオスカーノミネートと外観的には話題性十分の作品だと思うが、アメリカでの大コケの影響か、日本での劇場公開は見送られた。

なお、本作の主人公として考えられていたのは『ア・フュー・グッドメン』(1992年)でロブ・ライナーと組んだトム・クルーズだったが、『ザ・エージェント』(1996年)とのバッティングで降板。そして本作でアカデミー賞にノミネートされたジェームズ・ウッズは、『ザ・エージェント』のキューバ・グッディング・Jr.に敗れて授賞を逃すこととなる。

私が本作の存在を知ったのはVHSリリース時で、レンタル屋に行って何度か手に取ったのだが、見るからに生真面目そうなルックスで結局は借りず仕舞いだった。

その後にディスク化されることもなく、VHSというメディアの終焉と共に本作も表舞台から姿を消し、わずかに市場に残ったレンタル落ちVHSには1万円超のプレ値が付けられているのが現状。

まさに鑑賞困難作品なのだが、ある時Amazonを見ると、マーケットプレイスにおいて110円で売られているのを発見。送料を含めても500円行かないではないか。

「ほんまかいな?」と思いつつ購入してみたら、ちゃんと見られる状態のVHSが届いた。ごくまれではあるがこういうことが起こるので、中古VHS漁りはやめられない。

法廷ものとしてはオーソドックスすぎる作り

1963年にミシシッピーの黒人運動家メドガー・エヴァーズが自宅前で狙撃され、ほどなく白人至上主義者バイロン・デ・ラ・ベックウィズ(ジェームズ・ウッズ)が逮捕された。ただし当時の法廷ではベックウィズは無罪放免とされたばかりか、釈放後のベックウィズは地元に英雄として凱旋するなど、ミシシッピー社会は本件に対して異様な反応を示した。

それから25年後の1989年、メドガーの未亡人であるマーリー・エヴァーズ(ウーピー・ゴールドバーグ)は検事局に再調査の依頼を出しに来る。

ただし当初の検事局の反応は鈍く、「依頼を無視すれば叩かれるし、形だけでも対応したことにしておくか」って感じで不承不承ながら動き始めるのだが、調査をする中でいろいろおかしなことに気づいた地方検事ボビー・デローター(アレック・ボールドウィン)は、やがて本件にのめり込むようになるというのが、ざっくりとしたあらすじ。

失われた証拠の発掘や、事件当時には無視されていた証言者の再調査など、法廷ものとしてはオーソドックスな作りとなっている。なのでそれなりには楽しめるが、それ以上のものにもなっていないというのが率直な感想。

撮影監督は本作と同年の『イングリッシュ・ペイシェント』(1996年)でアカデミー撮影賞を受賞したジョン・シールだが、これまたしゃべってる俳優のアップばかりの動きのないカメラワークで退屈させられる。

「テレビドラマみたいに作れ」という指示でも出ていたのかと思うほど、本作の見てくれは地味なのだ。

また主人公ボビーの人柄は「正義一直線」という感じで面白みに欠ける。実在の人物だし、映画化時点において実際の裁判からの日があまり経過していなかったこともあって、自由な脚色ができなかったのかもしれないが、ここまで実直な人柄のキャラクターにはまるで魅力がない。

なお実際のボビー・デローターは2009年に司法妨害で逮捕されており、連邦刑務所で2年間のお勤めをなさったらしい。そうした裏のある人物が「これだけは許しておけん!」として正義のために戦う話の方が面白かったと思うのだが。

「ミシシッピーの亡霊」が描かれていない

現代の「ゴースト・オブ・ミシシッピー」を直訳すると、「ミシシッピーの亡霊」となる。これはアメリカ南部に根強く残る人種偏見を喩えたものだ(wikiの記事の受け売り)。

舞台となる80年代末から90年代初頭のミシシッピー州では、表面上、人種差別はかなり改善したということになっている。

しかし人々の心の奥底から差別意識が完全に消え去ったわけではなく、時代の変化と共に、両人種がうまく折り合っただけとも言える。

すなわち、白人たちは「私たちは差別を許しません」という顔を装い、黒人たちは歴史的になされてきたことを水に流したということにして、現在の社会は築かれているのだ。

そんなところに60年代の遺恨を復活させれば、ミシシッピーの社会はいったいどうなるんだということが、ボビーに圧力をかける側の主張となる。

曲がった理屈ではあるが、すべてが美しくもなければ合理的でもない人間社会の一側面を捉えた主張であるともいえよう。

また劇中にはこのような描写があった。

ボビーは母に向かって「昔、母さんが『メドガーなんて殺されて当然』と言うのを聞いた」と主張する。「私はそんなこと言っていない」と反論する母。

ベックウィズのようなゴリゴリの差別主義者は今も昔も悪い意味で首尾一貫しているが、60年代にベックウィズのような者をのさばらせ、つけ上がらせたのは、ボビーの母のような大衆たちだった。

しかし、かつて差別をしていた人々も、時の経過とともに自分たちが過去に言ってきたことすらコロっと忘れて、あたかも最初から自分は良い子ちゃん側にいたと思い込むようになる。

太平洋戦争後に反転した日本の国民世論を見ても、大衆にこのような傾向があることは間違いないが、もしもメドガー事件の再審で当時の世相が蒸し返されれば、ボビーの母のような人々の言ってきたことまでが掘り起こされるかもしれない。

そのことに対する大衆たちのぼんやりとした不安が、ゴリゴリの差別主義者以上の脅威となってボビーとマーリーの前に立ちはだかるわけである。

この構図は面白いと感じたが、企画時点では確かに存在していたであろう社会的な考証部分が、完成作品ではさほど追及されていないという点にはがっかりした。

結局のところ、映画は正義の白人が悪い差別主義者をとっちめて終わりで、この事件が90年代のミシシッピー州に及ぼした精神的影響がまるで追及されていない。これではタイトル負けだろう。

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