【雑談】私がブラック校則を擁護する理由(前編)

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雑談

ブラック校則が世間を賑わせていますが、私はブラック校則にも必要性があり、校則全般が悪いとも思いません。集団に規則は付き物だし、理解しようとしない子供には強制的に従わせる場面もありうるからです。「校則はブラックなどではない。もしこれをブラックと呼ぶものがあれば、出るところに出てもよいと思っている」(スクールウォーズ風)

フルボッコ状態のブラック校則

非常に危険な魔女狩り状態

最近、文科省が学校に対してブラック校則の見直しの通達を出したとの報道を見かけました。

【独自】下着の色指定・特定の髪形禁止…「ブラック校則」見直しを通知(2021年6月11日 読売新聞オンライン)

ブラック校則が社会問題になったのは2017年頃で、東京都の学校が生徒に地毛証明を求めていることがまず問題視され、続いて大阪でもともと明るい髪色の子にまで黒染を強要したことが裁判になったいう流れだったと記憶しています。

その時は見出しだけチラ見して「もし事実なら人権問題かもねぇ」くらいに流していたのですが、最近の論調では「子供の人権」だの「学校は時代遅れ」だのと厳しめの批判ばかりが並んでいるので、天邪鬼な私はむしろ興味が湧いてきました。

本件のような100対0のフルボッコ状態というのは魔女狩りに近く、社会的なボルテージがこのレベルにまで達してくると、往々にして合理的な制度論を逸脱してみんなの憂さ晴らし大会みたいになってくるものです。

そんな社会的熱狂と正論の洪水という異様な空気の中では、「醜い現実に対抗するため受け入れざるを得ない必要悪かどうか」という現実問題に根差した論拠がついつい見落とされがちになります。

そう考えると「ブラック校則」という名称にも聞く側に一方的な悪印象を抱かせかねない危険性を感じてくるし。

そこで、ブラック校則問題を再検証してみたいと思います。

黒染め裁判で意外な判決が出ていた

一連の騒動の発端となったのは2017年の黒染め裁判。原告(不合理な生活指導を受けたとされる学生の保護者)の主張を要約すると↓の通りになります。

  • 娘の地毛は茶色なのに校則を理由に黒染を強要され、これに応じざるをえなかった
  • しかし黒染が不十分であるとして出席禁止措置を受け、修学旅行への参加も認められなかった
  • その処分により娘は不登校になり、身体的特徴を否定されたことで精神的苦痛も受けた

「黒染め強要で不登校」生まれつき茶髪の女子高生が提訴(2017年10月27日 朝日新聞デジタル)

そして大阪地裁の判決の趣旨は↓の通り。

  • 教員が当該生徒の地毛を黒であると認識したことには合理的根拠が認められる
  • 髪型を制限する校則は社会通念上、不合理とは言えない
  • ただし校則に従わないからと言って名簿から削除したことはやり過ぎなので、その点への賠償はしてもらう

「黒染め強要」訴訟 大阪府に33万円賠償命令 大阪地裁(2021年2月16日 産経新聞)

こうして見ると一部のやり過ぎた部分のみ賠償という判決であり、原告側の主張はほとんど受け入れられていないということが分かります。マスコミや世論が「ブラックだ」と叫んでいる校則に対して、裁判所は「ブラックとは言い切れない」と結論付けたことは意外に感じます。

ただし報じ方が悪く、「賠償命令」なんて見出しの付け方をされると多くの読者は原告側の主張が通ったと錯覚してしまうわけで、その辺は正しい情報が伝わるよう工夫して欲しいものです。

なぜ校則は必要なのか

では、なぜ校則は必要なのかという点を確認してみましょう。

ドレスコードは社会で当然に存在するもの

校則は多岐にわたって制定されているものですが、いつの時代にも服装・髪型がその論争の中心となります。

では服装や髪形に制限を加えることに意味はあるのかと言われると、これはあると言い切れます。なぜなら、社会にはドレスコードなるものが厳に存在するからです。

そこに居る参加者の服装がバラバラだと、その場の雰囲気が乱れてしまう…そんな事態を避けるための配慮・マナーとしてドレスコードは設けられるようになったと言われています。TPOにふさわしい服装は、大人の一般常識のようなもの。その場の雰囲気を悪くしないためにもドレスコードは理解しておきましょう。

ドレスコードとは?意味・種類~大人の男性・女性なら知っておきたいTPO別の服装 SHOPLIST.com

「なぜ着たい服を着ちゃいけないんだ。フォーマルなんて堅苦しい」と物わかりのいいことを言う人だって、人生がかかった面接や偉い人との会席などでは「自分がしたい姿」ではなく「相手からおかしいと思われない姿」を優先しますよね。それがドレスコードです。

そして学校だって公の場であり、その場で求められる程度の品位、相応の格好をすることは当然に必要なのです。学校を完全なプライベート空間と同じに考えられては困ります。

よく「学校が生徒に対して禁止する理由を合理的に説明できないのであれば、生徒の自由を許容すべき」的な論調が聞かれますが、そういうことを言う方々は学校がオフィシャルな場所であるという前提が飛んでいると思います。

「生徒が学校に対して許容すべき理由を合理的に説明できないのであれば、禁止事項に従うべき」がルールと個人との正しい関係性ではないでしょうか。現在の議論は説明責任が逆転しているような気がします。

あとこの話題だと必ず「人を見た目で判断するな」という綺麗事が出てきますが、よほどの有名人でない限り人は見た目で判断されますよね。汚い身なりでも尊敬されている人っています?

私には一休さんくらいしか思い浮ばないのですが、600年も前の人ですよ。

「服装の乱れは心の乱れ」は正しい

みなさんは「年甲斐のない恰好」をしているでしょうか?いい社会人なのに原宿系の服を好んで買うとか、昔のえなりかずきみたいに若いのにおっさんのブランドを好んで着たがるとか。

多くの人はそんなことはせず、「今の自分にはこのくらいが丁度良い」という線で服装や髪形を選んでいると思います。

数年前に勢いで買った仮面ライダーBLACKのTシャツは、専らパジャマとしてしか使用していません。個人的には小1時間でも眺めていたい素敵なTシャツではあるのですが、これを着て外を歩いた瞬間に社会的に重要な何かが壊れてしまいそうな気がするので。

なぜなら、服装や髪形には単純に「かっこいい」「かわいい」だけではなく、「私はこういう姿をするタイプの人間です」という情報も含まれているからです。

10代の子の服装や髪形にも同様のことは言えます。ただ「茶髪がかわいい、ツーブロがかっこいい」だけではなく、それらのファッションが象徴する不良性への憧れがその先にはあると思われます。

その逆もまた真なりで、茶髪やツーブロというファッションを純粋にカッコいいと思っているおとなしい子がいるとします。しかしそれが不良性へのアイコン的な役割を果たして「イキがっている」と思われることが精神的なハードルになって、彼らはなかなか実行に移せないわけです。

「大学デビュー」という言葉がありますが、それはセルフイメージが確立されていない新生活でならば、従前環境下では「私らしくない」と周囲から思われそうでできなかったファッションにもすんなりトライできるという現象を指しています。

この通り、ファッションとそれを身に纏う個人の態度や嗜好には密接な関係があるので、服装や髪形の変化から異変の兆候を読み取るという判断方法には一定の合理性があると言えます。大阪地裁判決はそれを支持したものだと推測します。

久しぶりに会った甥っ子のファッションが激変していると「何かあったの?」って聞きますよね。そういうことです。

ただし血も繋がっていない教師が個人の裁量だけで「その髪型をやめろ」「その服を着るな」と言っても強制力に乏しいので、校則という形で明文化し、「校則違反だから直しなさい」という合意形成しやすい文脈を作り上げているわけです。

すなわち校則とはただ単純に髪型や服装を取り締まることが目的ではなく、生徒の生活態度をあっち側とこっち側とに分ける分水嶺として各禁止事項を設定しており、あっち側に傾いている生徒をこっち側に引き戻すために「校則を守れ」と言っているのです。

より噛み砕くと、ほっとくとそのうち何かしらやらかしそうなので、見た目にシグナルが表れた段階でブレーキをかけておくということがその趣旨であると考えられます。

ブロークン・ウィンドウ理論

「だったら非行そのものを直接的に取り締まればよくて、服装や髪形といった間接的な取り締まりはおかしい」という反論もあるかもしれません。

これに再反論しますが、風紀の乱れのような小さな逸脱を見過ごすと、やがて大きな逸脱が発生するということは学術的にも指摘されています。

犯罪学者ジョージ・ケリングが1982年に発表した「ブロークン・ウィンドウ(割れ窓)理論」です。ある地域で建物の窓が割れているのを放置すると、それが誰も注意を払っていないという象徴になって軽犯罪が起こるようになり、そのうち凶悪犯罪を含めた犯罪が多発するようになるとして、地域の治安悪化を説明しています。

そして地域の治安を回復させるためには、目が向きがちな重犯罪対策だけをするのではなく軽微な犯罪にも厳格に対処し、ゴミのポイ捨てや落書きのような秩序違反行為であっても取り締まることが有効であるとしています。

元NY市長のルドルフ・ジュリアーニ(在任期間1994-2001年)はこれを徹底的に実践し、些細な喧嘩や騒音トラブルにも警察官を出動させ、地下鉄の落書きを消すなどの地道な活動からタイムズスクウェアからの風俗店締め出しまでを行い、風紀を高めることでNY全体の凶悪犯罪の減少を実現しました。

マーク・ウォルバーグとラッセル・クロウが共演したサスペンス映画『ブロークンシティ』(2013年)はジュリアーニ市政の功罪を扱った作品なので、ご興味があればぜひご覧ください。

このブロークン・ウィンドウ理論の実践例は日本国内にもあって、ディズニーランドはほんの些細なペンキの剥がれや僅かなゴミも見逃さずに徹底して美観を保つことで、入場客に秩序を守らせる風土を作っています。

これを校則に当てはめると、服装や髪形の変化から非行の兆候の有無を判断し、軽微な逸脱の時点で指導をすることで大きな逸脱を防ぐという管理方法をとっており、犯罪学的にこれは有効であると言えます。

地域の人達が文句を言ってくるから

私が校則問題で案外重いと考えてるのがこれです。

「●●中の生徒は礼儀正しい」「△△中の生徒は服装が乱れている」みたいなことは皆さん仰いますよね。あまりにひどい場合には学校にクレームを入れたりします。

で、クレームが入ると学校としても対処せざるを得なくなるわけです。あまりに評判が悪いと教育委員会に話が行ってみたいなことにもなりかねないし。

結局、生徒を押さえつけることって社会みんなが求めてるんですよ。

ブラック校則を新聞やテレビなどで見る分には「なんでそんなに不条理なことを」「子供達がかわいそう」と聖人ぶって擁護に回るんですけど、地域の評判の悪い学校の生徒に対しては眉をひそめてるんですよ、みんな。矛盾してませんか?

もし本当にブラック校則をなくせと言うのであれば、地域全体が学生の身なりや振る舞いについて寛容になり、不良を見てもなんとも思わないハートを持つことです。そうすれば学校だって本当に必要な条項だけを残すなどの整理ができるようになります。

不良の子を見かければ不愉快だと文句を言い、「学校は生徒をちゃんとしつけろ」という思考をやめられないのであれば、あなたもブラック校則を求めている側です。都合の良い時だけ聖人ぶるのはやめましょう。

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あまりに長い記事になってきたので、後編に繋げます。ウルトラセブンのキングジョー回みたいになってきましたね。

後編では実際に校則を廃止した桜丘中学の事例分析や、生徒を統率することの意義、教育現場の在り方とはといった項目を見ていきたいと思います。

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