(1983年 日本)
伝説の封印作品として名高い映画だが、作品内容自体は割と普通。80年代のオーソドックスな青春映画のフォーマットにまとめられているのでさらっと見やすいが、それ以上のものがあるわけでもない。
伝説の封印作品を1,650円で買える時代
伝説の封印映画のDVDが楽天ブックスにて激安販売されていたので(驚異の1,650円!)、とりあえず買ってみた。
1980年代初頭に社会問題化した戸塚ヨットスクールを、ややスクール寄りの視点で映画化した本作だが、私の世代はリアルタイムで報道を見ていたわけでもなく、実のところ、この題材にはあまりピンときていない。
高校時代によく見ていた『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』の人気企画「限界シリーズ」
言葉を崩しても注文が通るかという検証企画であり、「カツカレー」の回では「おつかれ」「角刈り」「勝新」「カンガルー」と来て、最後に松本人志が「戸塚ヨットスクール」と言ってカツカレーを注文しようとして大爆笑だった。
私にとっての戸塚ヨットスクールの認識はその程度のものだ。
しょーもない話をしてしまったが、本作を取り巻く状況についてネットで調べて何となくわかったことを↓の項で備忘的に書いておく。
興味のない方、もう知ってるよという方は、以下のパートを読み飛ばして「感想」に飛んでいってください。
封印までの道のり
戸塚ヨットスクールとは戸塚宏校長により1976年に設立されたスポーツ教室で、横浜市戸塚区とは何の関係もない。私は戸塚区にあるとばかり思っていたが、実際の所在地は愛知県美浜町である。
当初は純然たるスポーツ教室だったのだが、ここに通う生徒の不登校がいつの間にやら直っていたなどの評判が評判を呼び、そのうちマスコミにも持ち上げられるようになったことから、我が子の非行・不登校に悩む親の駆け込み寺へと変貌した。
1982年にはノンフィクション作家 上之郷利昭によるスクールへの密着取材が中日新聞と東京新聞に連載。後に単行本としてまとめられ『スパルタの海 甦る子供たち』のタイトルで出版された。これが本映画版の原作となる。
と同時に訓練生の死亡・行方不明事件が複数発生していることも明るみになり、社会は賛否両論状態となった。
一般に賛否両論というのは、否定的意見がほぼという状態ではあるのだが・・・
そんな折、実録映画のネタを探していた東映のプロデューサー天尾完次はこの題材に目を付けた。
監督には、かねてより一緒に仕事をしたいと思っていた西河克己を指名。
東映でエログロ映画を作っていた天尾と、日活で吉永小百合や山口百恵の青春映画を作っていた西河という奇妙なコンビではあったが、不登校児だった子息を交通事故で亡くした経験を持つ西河には題材に対して思うところでもあったのか、これを引き受けることにする。
「戸塚ヨットスクールを支援する会」の理事でもあった伊東四朗が主演を引き受け、実際のスクールのある美浜町で撮影を敢行。
映画はちゃんと完成したものの、1983年9月の公開を前に戸塚校長やコーチが続々と逮捕される事態となり、上映は中止となった。
以降、封印作品として一部の映画ファンにのみ知られる幻の作品となったが、2005年に有志による上映会がなされたことで長い封印を解かれ、2011年には一般公開。そして今ではDVDを1,650円で買える状態にまで普及した。
感想
そもそも戸塚ヨットスクールへの認識が不足した私が、なぜこの映画を見たのか。
それはこの物々しいDVDジャケットが目に飛び込んできたからである。

流血を思わせる赤で染まった背景をバックに、物凄い剣幕で何かしらを叫んでいる伊東四朗と、刃物を構え、こちらも何事かを叫んでいる横山やすし似のヤング
そして汚い書体の字で「スパルタの海」!
ご丁寧に「海」の字の背後には血しぶきのようなものが飛び散っている
畳みかけるように「日本映画史上最大の問題作、遂に、完全解禁。」「暴力か!体罰か!」である。
よくよく考えると暴力と体罰では対比になっておらず、そこは「暴力か!教育か!」ではないのかと思うのだが、インパクトを考えて刺激的な2語を並べたのだろう。
見てはならないものを見た気になった私は、慌てて「スパルタの海」について調べ、上記ジャケットに書かれた文句がハッタリではないことを知った(発売元がアルバトロスなのでちょっと疑っていた)。
しかも値段は1,650円(しつこい)。気が付くと購入ボタンを押していた。
冒頭では家庭内で荒れ狂う少年と、慣れた手つきで彼を押さえ込み、車で連行する大人たちの攻防が描かれる。
一連の騒動で割れた窓ガラスがアップになると、『スパルタの海』のタイトルが禍々しい書体で映し出される。
凄まじいインパクトだ。
これほど印象的なタイトルバックは『パルプ・フィクション』(1993年)以来ではなかろうか。
当時の日本映画特有の粗さも良い方向に作用し、現代では出せない荒っぽさ、生っぽさがほとばしっている。
戸塚ヨットスクールの合宿所に連行されるや、バリカンで坊主頭に刈り上げられ、押し入れに作られた檻に閉じ込められる少年。
そんな動物並みの扱いを反映するかのように、彼のニックネームは「ウルフ」に決まった。
目の前で起こっているのは人権無視の所業ではあるが、この少年が冒頭で為した家庭内暴力を考えると、これくらいやらなきゃ治らないという事情も理解できる。
つづいて、こちらも手のつけようのない不良少女・明子が収容される。
二人の更生と成長が作品の軸であり、戸塚校長(伊東四朗)との衝突を繰り返しつつ、二人が変わっていくさまが、意外とオーソドックスに映し出される。
青春映画の名手として知られた西河克己監督の手腕によるところが大きいのだろうが、あまりにうまくパッケージ化されすぎていて、本編では冒頭を上回るインパクトを生み出せていない。
現代目線ではぎょっとする場面もいくつかは出てくるのだけれど、金八先生が不良少年をぶん殴る様が感動の名場面とされていた時代性を考慮すると、そこまで突出したものはないように思う。
件の、横山やすし似のヤングもちゃんと登場して、ちゃんと包丁を握りしめるのだが、こちらも「見ちゃいけないものを見た」というほどのインパクトはなかった。
戸塚校長によるしごきも、そこまで酷いものでもなかったし(実際のスクールはこんなもんじゃなかったらしいが)。
本作は内容が問題視されて封印されたのではなく、扱いに困る題材だったがゆえに長期間陽の目を見なかっただけなので、内容自体は至って普通なのだ。
エログロを得意としてきた天尾プロデューサーのこだわりか、無駄な入浴シーンがあるのには笑ったが。
ウルフが全裸で逃亡するという次の展開を考慮すると男湯の場面は必要であったにせよ、女湯まで撮る必要はなかったし、女優さんのおっぱいやお尻をチラ見せする必要はもっとなかった。
丁寧に作り込むタイプの監督と、過剰なサービス精神を発揮するプロデューサーの間で、何に注力すべきかが定まらず、結果、中途半端な作品になってしまったという印象である。
【余談】正しい教育とは何だろう
そんな感じで作品内容自体にはさして感じることもなかったので、本作を通じて戸塚ヨットスクールや教育について思ったことをつらつらと書いて終わりにしたい。
まず子供の人権は大事にしなければならないし、むやみに暴力をふるったり、人道無視のしごきをしてはならない。
これは当然の前提であり、言って聞く子は優しい言葉で導いてあげればいい。
問題は、すでに対話が成立しないレベルにまで悪化した子供をどうすんのってことだ。
それはフィクションの存在ではない。お子さんの通う学校で、家族で暮らす町内で、手の付けられないほど荒れた子供というものを、みなさんも見たことがあるだろう。
彼らは言って聞くような状態ではない。
劇中、不良少女・明子に手を焼く両親に対して、学校の先生は「家族で話し合って」としか言わない。
すでに話し合いでどうこうできるレベルでないことは誰の目にも明らかであるにも関わらずである。
通用しない対応策を講じ続けているのは、その子を見捨てているのと何ら変わらないのではないか。
何年か前に流し読みしたネット記事の内容なので正確ではないかもしれないが、戸塚校長は「スクールに来るのは社会から見放され、誰からも相手されない子供達だ」という趣旨の発言をしていた。
子供はいつか大人になる。
よほど太い実家でもない限り、家の外に出て、社会と関わり合いを持って稼がないと食えないのが現実なのだが、では生きる力を身に付けないまま成長してしまった子供達はどうすればいいのだろう。
昔は金八先生のような教員が親と協力して子供部屋から子供を引っ張り出していたが、今や明子の両親に対して「話し合いで」と言ったのと同レベルの指導しかできない。
学校だって教員だって一番大事なのはわが身なので、他人の子供に世話を焼きすぎた結果、体罰だの人権無視だの言われたら堪ったものじゃない。だからある一線を越えては踏み込んでこない。
ここで疑問
脱線した子供を優しい言葉で包むだけの教育と、己の手を汚してでも正常軌道に戻そうとする教育、どちらが人道的なんだろう。
物事には功罪両面がある。
死亡者を出した点では戸塚校長を擁護できないけど、とはいえスクールのやったことすべてが悪で、彼らの方針は言語道断というマスコミの論調は、現実を捉えていないのではないかな。


コメント
まさか映画化されているとは・・・ 実はここではないですが不登校時代に親が良かれと思って似たような施設に入所させられそうな事があったので興味深く読ませてもらいました その時は母の友人があそこも戸塚みたいな事してるらしいわよ!という助言で事なきを得ました