(2024年 アメリカ)
3時間20分に渡って描かれるユダヤ系移民の一代記。時に眠気に襲われつつも、重厚感溢れる作風にはそれなりに魅了されるものもあったが、各エピソードはぶつ切り状態で感情が継続せず、散漫なドラマの積み重ねのようにも感じた。

主人公のモデルはゴールドフィンガー
タイトルの『ブルータリスト』とは、建築様式「ブルータリズム」の建築家を意味する。
エイドリアン・ブロディ扮する主人公ラースロー・トートは架空の人物なのだが、モデルとなった人物は存在する。
それはユダヤ系ハンガリー人建築家のマルセル・ブロイヤーとエルノ・ゴールドフィンガーだ。
ゴールドフィンガー・・・
そう、『007』の悪役ゴールドフィンガーである。
エルノの妻アーシュラのいとこであるジョン・ブラックウェルは、『007』シリーズの作者イアン・フレミングと知り合いだった。
フレミングが、たまたま読んでいた鳥類学の本の著者名から主人公をジェームズ・ボンドと名付けたのは有名な話だが、ゴルフのラウンド中の雑談でブラックウェルからゴールドフィンガーの話を聞かされたことから、著作の悪役にその名をつけることにしたらしい。
実在する方のゴールドフィンガーは熱心なマルクス主義者で、全く冗談が通じない堅物。軽い冗談を言ったアシスタントをクビにしたり、自分のビジョンに口出しした客を追い払ったりと、まぁ付き合いづらい人物だったようだ。
感想
上記の蘊蓄は鑑賞後に仕入れたもので、鑑賞時には予備知識なしの状態だった。
ヴェネツィア国際映画祭では銀獅子賞、ゴールデングローブ賞では作品賞、主演男優賞、監督賞、アカデミー賞では主演男優賞、撮影賞、作曲賞と、2024年の賞レースで抜群の強さを誇った作品ではあるが、3時間35分(サブスク版は3時間20分)という『ベン・ハー』(1959年)並みの上映時間がネックとなって、今の今まで見ていなかった。
週末に時間ができたのでようやっとの鑑賞となったが、感想は「名物に旨い物なし」といったところか。
母国ハンガリーでは名の知れた建築家だったラースロー(エイドリアン・ブロディ)は、ナチスの迫害を逃れてやってきたアメリカではしがない肉体労働の職にしかありつけなかったのだが、成金のハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアース)に”発見”されたことで、アメリカでのキャリアが動きだすというのが、ざっくりとしたあらすじ。
東欧系ユダヤ人が主人公であるうえに、『戦場のピアニスト』(2002年)のエイドリアン・ブロディが主演とくればゴリゴリのホロコーストモノを連想するところだが、実のところ本作は一般的な移民のドラマとして製作されており、ホロコースト要素はほとんどない。
主人公にしても、元はオランダ系のジョエル・エドガートンがキャスティングされていたものだったし。
実は本作、2020年に製作予定だったのだが、新型コロナウィルスのパンデミックによる度重なる延期を経て、まったく別キャストで撮影されたという経緯があるのだ。
- ラースロー・トート/ジョエル・エドガートン→エイドリアン・ブロディ
- エルジェーベト・トート/マリオン・コティヤール→フェリシティ・ジョーンズ
- ハリソン・ヴァン・ビューレン/マーク・ライランス→ガイ・ピアース
- ハリー・ヴァン・ビューレン/セバスチャン・スタン→ジョー・アルウィン
- オードリー/ヴァネッサ・カービー→エマ・レアード
こうして並べて見るとオリジナルキャストの異様な豪勢さが気になる。予定通り2020年に撮影されていれば、まったく違う映画になったのではないだろうか。
本作でエイドリアン・ブロディはアカデミー賞を獲得したが、タイプキャスト的なブロディの存在が、作品の理解にはむしろ支障になっているのではないかと思う。
作品は二部構成となっており、主人公がアメリカン・ドリーム的に成り上がっていく前半部分は、それなりに面白い。
おらおら系の面倒くさい性格なんだけど、懐に入り込んでしまえば強力な保護者となってくれるヴァン・ビューレンとの関係性の中で、ラースローが巨大プロジェクトに挑む過程は月並みながらも良くできているのだ。
また製作費960万ドルというハリウッド映画としては控えめの予算ながら、1億ドルバジェット並みの壮大さを感じさせる撮影も素晴らしい。
本作では『片目のジャック』(1961年)以来、実に63年ぶりにビスタビジョンが採用されている。
ビスタビジョンとは1950年代にパラマウントが開発した画面サイズであり、スタンダードサイズの2倍のフィルム面積を使って撮影するため、画質が大幅に向上するというメリットがあった。
その反面、高コストとカメラの取り回しの悪さというデメリットもあったことから廃れていったのだが、1950年代を舞台にした本作には当時の撮影方法が必要であるとしたブラディ・コーベット監督のこだわりにより、これが復活した。
その効果は絶大で、作品には1950年代のスペクタクル映画のような重厚さが加わった。この辺りの監督の采配は見事としか言いようがない。
なのだが、二人の関係性に暗雲が立ち込める後半になると作品全体が迷走をはじめ、監督が何をやりたかったのかも分からなくなってくる。
主人公のドラマを実にじっくりと描き出した前半とは対照的に、後半は話が飛び飛びになるのだ。
まず資材運搬中の事故により工事が一時中断するという展開を迎えるのだが、全体を見渡してもこの展開を挿入する必要性が感じられなかった。
またヴァン・ビューレンがラースローをレイプし、ここから二人の関係や人間性は決定的に狂ってくるのだけれど、ヴァン・ビューレンが性的倒錯者であることを示す描写がない中での唐突の展開なので、衝撃よりも戸惑いを感じた。
そしてラースローから詳細を聞かされる描写がない中、妻エルジェーベトは突如としてヴァン・ビューレン宅に乗り込み、家主がしでかした悪事を客人たちの前でぶちまける。
直後、渦中のヴァン・ビューレンは姿を消すのだが、彼がどうなったのか最後まではっきりしないまま、物語は1960年代から1980年代へといきなりのジャンプをする。
3時間20分もの長尺であるにも関わらず、後半が説明不足になるとは思いもしなかった。
見ている間は、てっきりこれが実在する人物の伝記だとばかり思っていたので、詳細描けない事情でもあったのだろうと好意的に解釈したのだけれど、後から調べてみると架空の人物の伝記だというのでびっくりこいた。
フィクションであればどうとでもなっただろう。
実話と見紛うようなルックスを作り上げたことは確かにすごい。
だが外観だけで中身のない映画というのが全体の印象だ。


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