(1997年 日本)
90年代に社会現象を起こした不倫映画。不倫の実態を生々しく描く一方で、清涼感溢れるキャストでうまくパッケージ化できており、意外と楽しめた。念のため言っておくけど、不倫はダメゼッタイ。

90年代は異常な時代でしたな
Netflixで配信終了になりそうだったので、駆け込みで鑑賞。ま、この手の映画は配信終了と再度アップを繰り返しているので、近いうちにまた見られるようになるのだろうけど。
1997年に一大ブームを巻き起こした『失楽園』の映画化。
渡辺淳一著の小説は1995年9~10月にかけて日経新聞に連載され、むっつりスケベなおっさん達を虜にした。
1997年2月に出版された単行本は260万部、1997年5月に公開された映画版の興行収入は40億円、1997年7~9月に放送されたテレビドラマ版は平均視聴率20%超と、メディアミックスの大成功例となったのだが、不倫小説がこれほどのインパクトを持った90年代はつくづく異常な時代だったと思う。
有名タレントがこぞってヌード写真集を出版し、テレビに目をやると子供も視聴している時間帯から女性の裸がバンバン出ていた。深夜番組もどんどん過激化し(『トゥナイト2』や『ギルガメッシュないと』等)、世の中がエロエロとなっていたのだ。
この潮流は日本だけではなかった。
ポール・バーホーベン大先生が豪快に製作した『氷の微笑』(1992年)が年間トップクラスの世界興収をあげたことをきっかけに大手スタジオはエロサスペンスを量産し、シャロン・ストーンやデミ・ムーアといった脱ぐことに抵抗のないアクトレスが人気を博した。
かのクリント・イーストウッドは、スピルバーグ率いるアンブリン・エンターテイメントと組んで不倫小説『マディソン郡の橋』(1995年)の映画化を行い、全世界で1億8000万ドルもの興収をあげる大儲け。
雨の中ずぶ濡れですだれハゲ状態になったイーストウッドのみすぼらしい姿を見た主婦メリル・ストリープが、我に返って駆け落ちを思い留まるという面白い映画だったので、いつか感想文を書きたいと思う。
世界中がエロや不倫を堂々と消費していたスゴイ時代、それが90年代なのである。
不倫の実情に迫った映画
前フリが長くなってしまったが、ここからが映画の感想。
実は今回が生涯二度目の鑑賞である。
一度目は高校時代、金曜ロードショーでの初放送で見たのだが、完全にエロ目線だったので話は全く頭に入っていなかった。
肝心のエロも大幅にカットされていて、黒木瞳のおっぱいが全然見えなかったので、翌日の学校(当時はまだ土曜日も授業があったのだ)で男子一同怒り狂ったのは、今となっては良い思い出。
終始、辛気臭い顔をした役所広司と黒木瞳の哀愁を高校生が感じられるはずもなく、私の中では二度と見る必要のない駄作認定をしたのだが、自分自身が中年になった今あらためて見返すと、これがなかなかよくできているではないか。
話は至ってシンプルで、役所広司と黒木瞳がW不倫で双方の家庭を破壊した挙句、豪快に腹上死を遂げるという、本当にどうしようもない話である。
どこを切り取っても「家庭を大事にしなさいよ」「どうしても好きならちゃんと離婚してからね」としか言いようがなく、規範というものを重視している人にとっては、1ミリたりとも共感の余地がないだろう。
煩悩に任せて好き勝手しておいて被害者面の主人公2人は、ヒトとして完全に終わってると思う。
ただねぇ、人間ってのは正しいことだけをして生きていられるわけではないのですよ。
間違った道だと分かっていても気の迷いで入ってしまい、依存し、抜け出せなくなってしまう。そういうことってあるでしょ。
そんな大人のどうしようもなさが描かれているので、私は本作を気に入った。
役所広司扮する祥一郎は、雑誌の編集長を務めてきた仕事の鬼だったんだけど、熱心すぎるあまり社内に敵を作りすぎて閑職に追いやられている。
仕事という人生の軸を強制的に奪われた状態ではあるのだが、社内では「全然大丈夫っすよ」と平気な顔を取り繕い、家族に対しても、というか家族に対してこそ己の苦境を打ち明けられずにいる。
男のプライドであったり、周囲に心配をかけたくないという配慮であったりが入り混じった心境なのであろう。自分も中年になると痛いほどわかる。
黒木瞳扮する凛子は、稼ぎが良い以外に何の取り柄もない旦那との結婚生活の中で、人生の目標も喜びも見いだせないでいる。
ただし旦那のシルバー仮面はいわゆるハイスペックというやつで、表面的には人も羨む理想的な旦那なので、凛子の痛みに共感してくれる人はいない。実母すら「あんな良い人いない」と言ってくる始末。
そんな孤独で不安定な心理状態の真っ只中で二人は出会った。利害関係のない赤の他人だからこそ、自分のすべてをさらけ出せる。その居心地の良さにハマっていったのである。
この映画版の素晴らしい点は、二人の出会いをはっきりと描いていないということだ。
二人は決して運命の相手などではない。この心理状態においてタイミングさえ合えば、別の相手とでも同じ関係になっただろう。結局のところ、不倫とは自分勝手な欲望をどう満たすかでしかなく、パートナーは壁打ち相手のようなものなのだ。
さらには、不倫とは肉体関係が主であるという実態をも明らかにする。
なまじインテリの祥一郎は文学的なことをごにょごにょ言って面倒くさいのだが、長セリフの最後には凛子の股間に手を当てて「ここがいいからな」とおっさん丸出しの下ネタを言う。
その後二人が関係に及ぶと、凛子は凛子で「もう他の人とはできない」とチ●コの感想を言う。まぁどうしようもない2人だこと。
また別の場面。
凛子が慕っていた義父が急死した。どう考えても不倫相手と密会するような状況ではないのだが、こんなタイミングでも、というかこのタイミングだからこそ祥一郎は「君に会いたい」と電話をかけ、凛子は凛子でノコノコとホテルにやってきてしまう。
この擁護しきれぬだらしなさはどうだ。
どれだけキレイ事で装飾しようが、二人は体でしか繋がっていないのである。
身勝手中年男のファンタジー
かくして祥一郎と凛子は快楽と堕落に身を任せるだけ任せ、最終的には服毒して行為中に果てるという、何ともはた迷惑な最期を遂げる。
旅館を汚すな、せめてマンションでやれとか、素っ裸で性交したままの死体を見せられた遺族はどう思うんだとか、様々な異論も浮かんでくるが、体でしか繋がっていなかった二人が正常位のまま死ぬというのは、これはこれで象徴的でよろしいかなとも思う。
二人が死に至った理由もイマイチ判然としないが、結局、こいつらは面倒くさくなっただけだろう。
死を考えるほど追い詰められたようにも見えない、そんなに好きなら離婚して二人でやり直せばいいとか、まぁ正論である。
しかし彼らは人生をやり直すとか、二人での再出発とか言ってられないほど、人生というものを見切っていたのだ。
所詮、体で繋がっているだけの関係なので、リアルに共同生活をはじめればそのうち相手の嫌なところも見えてくるだろう。
気の向いた時にだけ短時間会えばいい不倫相手と、24時間365日を共にすることが義務化する配偶者とではまったく違う。不倫相手としてはいかに素敵だと感じても、配偶者にした途端に双方が幻滅するということは想像に難くない。
勢いで結婚できた若い頃とは違い、「貧しくとも生きる、老いても愛する」なんてのは綺麗事だと、この歳になればさすがに分かる。
凛子が愛したのは高級ホテルや老舗旅館をパパッと予約してくれる祥一郎であり、祥一郎が愛したのは鴨とクレソンの鍋なんていうおしゃれすぎてサブイボの出てくる飯を勧めてくる凛子なのだ。
こんな二人には、ボロアパートで身を寄せ合いながらスーパーの見切り品を口にする将来なんてありえない。
また浮気する者同士なので二人の生活は疑心暗鬼で埋め尽くされるだろう。
そうした諸々を考えるともはや私たちに後先などなく、一番思い合えている状態で昇天してしまいましょうとなったわけだ。
特に祥一郎の方はいわゆる中年の危機状態にあった。人生の義務をほとんど果たし、今度は何を目標に生きればいいのか指針を失っているところだった。
このまま緩やかな下り坂人生を数十年生きるくらいなら、人生でもっとも解放された状態で終わりたいという感覚は、分からんでもない。
しかも12歳も年下の美人が道連れになってくれるのだから、もはや男のロマンである。
それだけではない。最終的に不倫は発覚したが妻から逆上されることも、一人娘から幻滅されることもなかった。
隠しきれていると思ってたのは当人だけで、配偶者にはとっくに気づかれてたというのはあるあるだが、一方的な裏切り行為をしておきながら、恨まれることも、ゴタゴタで消耗することもなく、すんなりと家庭生活から降りられたのだから、まったくもって祥一郎は恵まれている。恵まれすぎている。
ここまでくると男のファンタジーである。祥一郎のクズっぷりには、もはや清々しさすら感じる。
角川書店によるパッケージ化の妙
こうして書くとひでぇ話だなぁとも思うが、気品溢れる役所広司と黒木瞳をキャスティングしたうえで、森田芳光監督には持ち前の美的、文学的センスを全開にさせて、美しくパッケージ化できているのは凄いと思う。
古谷一行&川島なお美という肉感溢れるドラマ版コンビと比較すると分かる、この清涼感。
原作を最初に支持したのは日経新聞の購読者であるおっさん達だったが、映画版の客層は7割方が女性だったというのだから、この”味変”は相当に効果的だったのだろう。
本作が社会現象を起こした一方で、ついに二匹目のどじょうが現れなかったことからも、本作がいかに傑出した作品だったかが分かる。
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