(2012年 日本)
人間とは何か、正しく生きるとはどういうことかを説いた内容はシンプルだがずっしり重く、度を越した残酷描写に耐えられさえすればイケる映画だと思います。
あらすじ
平安時代末期の飢饉の中でアシュラ(野沢雅子)が生まれた。産んだ母親は空腹に耐えかねて赤ん坊のアシュラを喰おうとするが、豪雨と落電によって生き延び、以降は獣のように育った。8歳になったアシュラは放浪の僧(北大路欣也)との出会いや、心優しい若狭(林原めぐみ)からの保護により、人間らしい感覚を身に付ける。
スタッフ・キャスト
原作はジョージ秋山最大の問題作
原作者のジョージ秋山は1943年東京生まれの漫画家であり、キャリア初期はギャグ漫画家として活動していました。1970年8月に週刊少年マガジンに『アシュラ』の連載を開始すると、従前の作風からはかけ離れた露悪的な描写で世間をざわつかせ、当該号のマガジンは神奈川県などで有害図書指定を受けました。
監督は『TIGER & BUNNY』のさとうけいいち
1965年香川県出身。学生時代にはMTV監督を目指し、その後はお笑い芸人を志したものの芽が出ず、テレビの裏方仕事をこなしているうちにアニメ業界に行きついたという異色の人物です。
90年代に『ゲッターロボ號』、『シティハンター』、勇者シリーズなどで作画監督を務め、21世紀に入ると『百獣戦隊ガオレンジャー』『ウルトラマンマックス』などの特撮番組にも関与するというフットワークの軽さであり、監督を務めたテレビアニメシリーズ『TIGER & BUNNY』(2011年)が人気を博しました。
その他、マイケル富岡がCMで演じた『UFO仮面ヤキソバン』のキャラクターデザインも手掛けています。
豪華声優陣
- 野沢雅子(アシュラ):言わずと知れた『ドラゴンボール』シリーズの孫悟空。その他に『ゲゲゲの鬼太郎』での鬼太郎、『ど根性ガエル』のひろし、『銀河鉄道999』の星野鉄郎という、日本声優界の重鎮。
- こおろぎさとみ(乳児期のアシュラ):『クレヨンしんちゃん』の野原ひまわり
- 北大路欣也(放浪の僧):小学6年生で俳優デビューし、以降70年近くに渡って活動を続ける日本俳優界の重鎮。ソフトバンクのお父さんの声。
- 林原めぐみ(若狭):『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ。
- 玄田哲章(地頭):アーノルド・シュワルツェネッガー公認のフィックス声優。また『トランスフォーマー』のコンボイ司令官。
- 平田広明(七郎):『ONE PIECE』のサンジ。また『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのジャック・スパロウの吹替。
感想
マジでやばいアニメ
本作に対する鑑賞前の私の認識は「『アシュラ』というとんでもないアニメ映画がある」ということをネットか何かで見ていた程度であり、その詳細はよく把握していませんでした。
最近、Amazonプライムに上がっていたので何となく再生してみたのですが、冒頭、地獄絵図としか言いようのない廃墟の中を、「痛い、痛い」と言いながら妊婦が歩いている様の異様さには完全に引きました。
おやつを食べながらスプラッタ映画を見られるほど残酷慣れした私も、根の暗さが段違いの本作には衝撃を受け、開始1分で再生を止めました。これを見て大丈夫なのかと。
その後数日間してから再チャレンジしたのですが、冒頭10分は大人が見てもトラウマですね。あまりに悲惨なので詳細を書くことは避けますが、もし子供が見たら人格変わるんじゃないかというレベルです。
原作第一話は社会問題化し、青少年有害図書指定を受けたようですが、確かにこれは世間がざわつきますよ。
「『アシュラ』は凄い」という事前知識があって、なおかつ救いのある結末までを一気に見られる映画という媒体ですらこの衝撃なのですから、何の予備知識もなく、どう展開していく話なのかも分からず、ある週の週刊少年マガジンに突如こんな漫画が載っており、読者にひとしきり地獄を見せた状態で「次回に続く」ですから、見ちゃいけないやつだと思われて当然です。
人間性を描いた力強い物語
冒頭10分を過ぎた辺りから作品は落ち着いてきます。もちろん普通のアニメと比較すると圧倒的な絵力みたいなのは継続するのですが、テーマがしっかりと打ち出されて、ただ残酷描写を見せたいだけの映画ではないことが分かり、ちょっとホッとするのです。
本作のテーマは動物と人間を分けているものは何なのかという問いであり、生命という器の限界から倫理的に完全に正しくも生きられない中で、それでも正しさを模索する人間というものの葛藤が力強く描かれます。
最初、主人公アシュラ(野沢雅子)は人間を捕食して生きています。自分が生きるためには他の何かを殺さねばならないという生物の性を忠実に実践し、そこに良心の呵責はありません。この時点でのアシュラは動物なのです。
しかし放浪の僧(北大路欣也)との出会いや、若狭(林原めぐみ)との関わり合いの中で徐々に人間性を獲得し、善悪という倫理観も芽生えて殺生を躊躇するようになります。
やがてその感覚は、自分は正しくありたいと願っても、その実践を阻むこの過酷な世に生まれ落ちたことを呪う感情へと繋がっていきます。
「うまれてこない方がよかったぎゃあ!」というアシュラの叫びには心を動かされるほどのインパクトがありました。この熱演をしてみせた野沢雅子さんという声優はやっぱり物凄いなと。
一方、若狭は極限状態であっても倫理に徹する女性であり、血と暴力に生きるアシュラとは対極に位置する存在です。
しかし彼女に欠けているのは生存の維持という感覚であり、「そうは言っても食わなきゃ死ぬ」という当然のことが抜け落ちているために命を落とします。いくら正しいことを言っても、死んでしまっては元も子もないというのに。
原作では若狭も飢餓に負けて人肉を喰らうのに対して、映画版では若狭は絶食を通すのですが、映画版の方がアシュラとの対比構造が際立っており、テーマがより分かりやすくなっています。
命あるがゆえにあがく。だからこそ、この世は美しい
アシュラが経験するのは過酷な戦いの日々であり、自分の心のうちにどんなに美しい倫理観が宿ろうとも、敵に襲われればやり返さねばならないし、食うものが無ければ何かを獲って食わねばならない。そうしなければ死ぬという状況下で悩み苦しみます。
それはペシミズムにも繋がりそうなのですが、ラストにてこれを「命あるがゆえにあがく。だからこそ、この世は美しい」とまとめます。
この言葉は『セブン』(1995年)のラストにも引用されたアーネスト・ヘミングウェイの「世界は美しい、戦う価値がある」という言葉に似通っているのですが、ヘミングウェイが戦うことを肯定的に捉えたのに対して、こちらは殺生を肯定してはいないが、それでもやらざるをえない葛藤こそが崇高であると捉えており、キリスト教圏と仏教圏の物事の捉え方の差異が興味深くもあります。
もし人間に生物的な肉体という制約条件がなく、何の代償も払わずにひたすら倫理だけを説いていられる存在だとすれば、その言葉には何の重みも有難みもないでしょう。
何不自由なく暮らす金持ちが「金が人生のすべてじゃない」と言ってるような空虚さしかありません。
生物として生きるからには何かしらの殺生に手を染めなければならないという制約条件を抱えた中で、それでも正しくあろうと悩み苦しむ行為こそ崇高なのです。
そうしたすべてのプロセスを肯定的に捉えた〆の言葉は実に重く感動的でした。
細部が雑なのが難点
ただし細部がちょいちょい雑であることが、物語への没入感を下げています。
アシュラは赤ん坊の頃に母親から食われそうになり、そこから保護者を失って動物として育ったのですが、赤ん坊がどうやって生命を繋いで8歳まで生き延びたのかが割愛されているので、設定に説得力がありませんでした。
アシュラは二度、地頭(玄田哲章)と対決し、二度とも死を確信されるほどの高い崖から落ちるのですが、毎回生き延びるという点も不自然。
アシュラがほぼ不死身のように強いことは、生物の有限性という作品テーマに反しているように感じました。
若狭はアシュラの世話をするのですが、この気味の悪い野生児を何の利害関係もない若狭が助けた理由が分からないし、貧しい村であるにも関わらず、長期間に渡ってアシュラを匿っておけるだけの山小屋があったことも変でした。
アシュラに言葉を教えたのも若狭なのですが、思いっきり標準語の若狭に対して、語尾に「ぎゃ」を付けるアシュラの名古屋弁のような訛りは一体どこから来たんでしょうか。
地頭に命じられてアシュラを追う村人たちは、飢饉の真っただ中だというのに元気すぎ。人肉を喰って元気もりもりのアシュラを追い込むだけのパワーはどこから来ていたんでしょうか。
このように全体的に説明不足で、勢いで乗り切った映画と言えなくもありません。
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