[2016年アメリカ]
7点/10点満点中
Netflixにアップされたことで初めて知った映画であり、そもそもどんな内容なのかもよくわからず、コメディというカテゴライズより未開人と文明社会の異文化交流を描く『クロコダイル・ダンディ』みたいな映画なのかなと勝手に推測して見始めたのですが、実際には笑いどころはほぼなくて考えさせられることだらけの良作でした。
■日本社会でもしばしば論争となる子育て論
ベンの子育て方針への評価は観る人それぞれだと思います。常に範を示しながら子供達全員を高いレベルに育て上げたことや、心の底から子供達に慕われている様に親の理想像を見出す方もいるでしょうが、かなり極端な父親の主張一択しかない人生に付き合わされている子供達が可哀そうという見方をする方もいるでしょう。私はどちらかと言えば後者でしたが。
親子だけの引きこもったコミュニティで極端な子育てをした例は日本でもしばしば論争の的となります。亀田三兄弟や成田童夢・今井メロ兄妹、そして東大医学部に三兄弟全員(後に長女も)を現役合格させたお母さんの例などがそれに当たりますが、子供の人格形成過程におけるインプットを極端に偏らせたその教育方法だと、一芸に秀でた子供を作ることはできても優秀な大人にはならないんじゃないかという懸念や、子供自身で判断できない段階から親が勝手に目標設定し、その目標以外のことを考えられない環境に子供を置くことが本人のためになっているのかという違和感こそが、批判の根底にあるのではないでしょうか。
■代替可能なスキルと代替不可能なスキル
妹夫婦と子育て方針について口論になった際、ベンは子供に傷の治し方や服の作り方、ナイフ一本でサバイバルする方法を教えて何が悪いのかと言います。すべて子供のためになってるだろと。続いて幼い娘を呼び出して権利章典の暗唱をさせて「お前んちの息子たちにはできない芸当だろ」と鼻高々なのですが、現代社会では怪我をしたら病院で治すし、服は購入すればいいし、ナイフが使えなくても街で暮らすことで生存の確保は可能です。また、権利章典を参照可能な方法はいくらでもあるのだから暗唱までできる必要はなく、ベンは自分でできなくても何かしらで代替する方法があるスキルを子供達に必死で教え込んでいるのです。
他方、対人スキルだけは個人に帰属するものであり、こればっかりは誰かに代替してもらうことはできないのですが、基本的に親子のみで運営される彼らの小さなコミュニティではこのスキルはまったく磨かれていません。ベンは自分だけではなく子供達までもが山奥で文明と隔絶された生涯を送ることのみを想定して、それのみに特化した、それ以外のことは何も分からない人間に育てているのですが、では彼らのコミュニティは永続可能なのでしょうか。
■ベンのビジョンには子供の成長や自立が考慮されていない
子供達にだって成長して自立をする時が来るだろうし、種を残すという本能からパートナーも必要になりますが、これらは彼らの狭いコミュニティでは対応不可能な問題であり、部外者と関わらざるを得ないステージがいつかやってくるはずです。
また、現時点ではベンの世界がすべてである子供達も、別の生き方に感心を持つ可能性だってあります。そうして自分の生き方を選択したくなった時に、彼らの非常に限定的なスキルでは各自が望む人生を送れなくなる可能性もあります。
■子供達の意思は反映されているのか?
妹夫婦の晩餐の場面でこんなやりとりがありました。ベンの奥さん(従兄弟たちからすれば叔母さん)が亡くなったことについて妹夫婦は子供達に「重病で助からなかった」という曖昧で当たり障りのない説明をしていたのですが、これを聞いたベンはすかさず「叔母さんは自殺した」と正確かつ容赦のない訂正を入れました。妹夫婦は「子供が処理できない情報を伝えるべきではない」としてベンに抗議するものの、ベンは「俺は子供には何でもシェアする主義だ」と言って譲りませんでしたが、ベンは本当に子供達を信用し、すべての判断を彼らに委ねていたのでしょうか。
ベンは子供達に厳しい情報管制を敷いており、ベンが良しとした情報しか知らない子供達となっています。ナイキもアディダスも知らない、テレビゲームは初めて見た、ファーストフードは本で見ただけで食べたことがない。ベンは自由を謳い個性を尊重するという体裁こそとってはいるものの、子供を魅了しそうな不純物をあらかじめ排除した生活を強要し、思考や選別の出発点となる判断材料をそもそも与えていないというめちゃくちゃアンフェアな状態で子供達と対峙していたのです。
兄弟の中でもレリアンは、恐らく感覚的にこの状況への違和感を抱いていたからこそ旅に出る前から反発の兆候を見せており、従兄弟の家でテレビゲームをやったり、モノに溢れたスーパーマーケットに行ったりすることで「僕たちにこういうものの存在を隠した生活をさせていたのはおかしい」という結論へと至ったのでしょうが、もしレリアンのような感性の鋭い子が居なければこの一家はどうなっていたのでしょうか。
※注意!ここからネタバレします。
■甘い着地点が残念だった
物語は子供達が父親を見放すわけでもなく、かといって元の生活に戻っていくわけでもなく、自分達の世界と外界がある程度共存可能な田舎への転居という結末を迎えます。これはこれで良い終わり方ではあると思うのですが、疑問に感じたのは金の問題はどうなったのかということでした。今まではほぼ自給自足の生活であり、どうしても発生してしまう最低限の支出だけは夫婦の貯蓄を切り崩してやりくりしていたものの、人里に出てくるということは経済社会への復帰でもあります。今までかからなかった生活費はどうするつもりなのか、そもそも転居で生じた大金はどうしたのか。
せせこましい人間だと思われるかもしれませんが、私は金の問題はとても気になります。人は金を稼ぐために人生の大半の時間を消費し、人生の制約条件はたいてい金絡みであるからこそ、社会や人生を描いた作品ではフィクションであっても経済感覚を失わない作りを目指して欲しいのですが、本作は「死んだ奥さんの実家が金持ちで、しかも過去の経緯を問わない良いご老人だったので、おそらく一家は彼らからの経済的援助を受けられた」というご都合主義で処理された点は残念でした。この部分さえしっかりしていれば、社会とは何か、良い人生とは何かを問う素晴らしい映画になったと思うんですけどね。
Captain Fantastic
監督:マット・ロス
脚本:マット・ロス
製作:モニカ・レヴィンソン、ジェイミー・パトリコフ、シヴァニ・ラワット、リネット・ハウエル・テイラー
出演者:ヴィゴ・モーテンセン、フランク・ランジェラ、キャスリン・ハーン、スティーブ・ザーン
音楽:アレックス・サマーズ
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
編集:ジョセフ・クリングス
製作会社:Electric City Entertainment、ShivHans Pictures
配給:Bleecker Street(米)、松竹(日)
公開:2016年7月8日(米)、2017年4月1日(日)
上映時間:118分
製作国:アメリカ合衆国
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