ソナチネ_強運がもたらす絶望【6点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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クライムアクション
クライムアクション

(1993年 日本)
北野武監督の初期代表作で、海外での人気も高い作品。ただし北野武の独特な死生観が反映された映画であり、娯楽からはかなりかけ離れた作りなので、バイオレンス好きは意外と受け付けない内容じゃないかと思います。かく言う私も、込められた意味は理解しつつもバイオレンス映画としては面白くなかったというのが正直な感想です。そうは言っても味のある映画ではあるので、見る価値はあります。

あらすじ

村上組組長の村川(北野武)は、その上位にいる北島組より沖縄で抗争を抱えている中松組の助っ人に行くよう命令を受ける。村川たちは沖縄へと向かったが、抗争は爆弾や銃弾の飛び交う危険な状態にあった。村川は腹心以外の組員を東京に帰し、自身と数人の子分は沖縄の田舎にいったん避難した。そこでやるべきことのなくなった村川達は、少年に戻ったように遊んで日々を過ごした。

スタッフ・キャスト

監督・脚本・主演は北野武

1947年足立区出身。ビートたけしにして世界のキタノ。

明治大学に進学するも大学の空気に馴染めず、卒業に必要な単位をとらないまま除籍。25歳の頃に浅草に転がり込み、ストリップ劇場の前座として芸人のキャリアをスタート。

1980年の漫才ブームに乗ってブレイクし、ブーム終了後にはテレビタレントとしてさらなる成功を手にし、タモリ・明石家さんまと共に「日本のお笑いタレントBIG3」と称されるようになりました。

と、書いてきたものの、80年代生まれの私の記憶にあるのは、すでにBIG3と呼ばれるようになったビートたけしだけです。では本作が製作された1993年当時のビートたけしの様子を振り返っておきます。

この頃のたけしは無敵でした。ゆっくりとした喋りで言葉が出て来なくなることも多い今のたけししか知らない若い人たちには意外かもしれませんが、この頃のたけしは日本一のマシンガントークであり、共演した明石家さんまが聞き役に回っていたほどでした。

不良あがりが多いたけし軍団を従えてまるでヤクザの大親分のような雰囲気だったし、たけしに認められれば世に出られるということで、若手芸人たちはたけしの企画で体を張っていました。ここから出てきたのが出川哲郎やダチョウ倶楽部です。

妻帯者でありながら共演女性に手を出すことは半ば公然の秘密状態で、そのことで批判を受けたりすることはありませんでした。マスコミはおろか、視聴者をも黙らせるほどの圧倒的な威圧感を放っていたのです。

時期は遡りますが1989年に『その男、凶暴につき』で映画監督デビュー。本来は深作欣二が監督する予定だったのですが、降板したため北野武が引き継ぎました。『3-4X10月』(1990年)、『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)と毎年のように映画を撮っており、監督としての手腕はこの頃から注目されていました。

初期の集大成として撮った本作『ソナチネ』(1993年)が欧米で評価され、『HANA-BI』(1997年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。世界のキタノと呼ばれるようになりました。

製作は奥山和由

1954年愛媛県出身。後に松竹社長に就任する奥山融の息子で、大学卒業後の1979年に松竹に入社し、『凶弾』(1982年)より映画製作に携わりました。

日本映画界の改革者であり、映画会社による干渉を避けるために製作委員会方式をとったり、映画ファンドを作ったり、大手映画会社が製作・配給・興行の3部門を統合的に経営するブロックブッキングを解消したりと、革新的な試みを次々と実施していました。

その根底にあったのは、映画会社が作りたい映画と観客が見たい映画のズレを解消したいという思いだったと推測します。

そんな過程で実施していたのが北野武や竹中直人といったタレントの監督化であり、それぞれが海外で映画賞を受賞するという実績を残したのだから、プロデューサーとしてさすがの慧眼だったと言えます。

ただし性急な改革は大きな反発を生み、1998年に松竹役員を解任されました。

以降も映画に携わり続けてはいるのですが、松竹時代ほど派手で大掛かりな作品は作れていません。

音楽は久石譲

1950年長野県出身。4歳よりバイオリンを習い始め、国立音楽大学作曲科で学び、テレビアニメ『はじめ人間ギャートルズ』(1974年)の音楽で商業デビュー。

Y.M.O.の細野晴臣の採用が見送られた『風の谷のナウシカ』(1984年)の音楽で注目され、以降、すべての宮崎駿監督作品を手掛けています。

『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)から『Dolls』(2002年)までの北野武監督作品を担当しましたが、音楽そのものが注目されるようになったため、北野武は以降の作品では久石譲の起用を見送るようになったとのことです。

作品概要

ソナチネとは

「ソナチネ(伊複: sonatine)は、クラシック音楽のジャンルまたは形式である。「ソナチネ」はソナタの指小形のイタリア語複数形 sonatine からきているが、単数形でソナチナ (伊・英: sonatina) などとも呼ぶ。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%81%E3%83%8D

ちょっと何言ってんだか分かりませんね(笑)。

まず複数楽章から構成されるソナタと言う楽曲形式があって、それを簡略化したものをソナチネと言います。短くて簡単なのでピアノの初期教材として利用されており、ソナチネを学んでからソナタへと移るのが一般的です。

本作で言えば、無駄を削ぎ落した作風、ヤクザが童心に帰る展開がこのタイトルに反映されていると考えられます。

感想

独特の美学に彩られた作品

本作の舞台は限られており、砂浜、古民家、あぜ道が繰り返し映し出されるのですが、撮影やロケハンがうまくいっていて、どの景色も見飽きることがありませんでした。

特にあのあぜ道。映画において道は人生の象徴として描かれることが多いのですが、真っすぐなんだがデコボコとした高低差があって先を見通すことができないあの道は、まさに人生そのものでした。

バイオレンスもかなり特徴的。撃ち合いになっても物陰に身を隠す者はなく、全員が棒立ちでバンバン撃っていると、運悪く弾に当たってしまった人間が倒れるという独特なものになっています。これもまた人生を象徴しているようでしたね。

エレベーターでの撃ち合いは白眉の出来で、あんなに狭い舞台で複数人が同時に銃を撃ち合うというアクションは前代未聞ではないでしょうか。2年後の『ダイ・ハード3』(1995年)で思いっきりパクられていましたが。

不良の持つ幼児性

東京のヤクザが友好関係にある組の抗争を手助けするため沖縄に出張するのですが、米軍基地のおひざ元だけあって現地には東京では考えられない武器(マシンガン、手榴弾etc…)が多くあって、このままでは死人が大勢出るという判断から、ヤクザ達はいったん田舎に避難。

何もない田舎で暇を持て余したヤクザ達は紙相撲をしたり、落とし穴を掘ったり、ロケット花火を撃ち合ったり、地元の女性と良い仲になったりして、小学30年生の夏休みを謳歌することになります。

ここで描かれるのは不良の幼児性。暴力に生きる人間はある意味純粋でもあって、人の目がなくなって去勢を張る必要もなくなると、子供のように目の前の遊びに夢中になります。

不良ってその懐に入っていくと、純粋で愛想の良い人が多いように感じます。彼らには人間としては幼い部分があって、それが悪い形で出ると社会に対する迷惑行為になるし、良い形で出ると仲間に対する思いやりになるのかもしれません。

北野武のプライベートムービー

作品中で気になったのが、「ヤクザ辞めたいな」という序盤の村川の台詞です。これって当時のたけしの心境だったんじゃないかなと思います。

上述の通り、当時のビートたけしは芸能界の頂点を極めていました。さらに上はないという位置にまで登り詰めたし、とんでもない金額もすでに稼ぎ出しており、今後の人生で金に困ることはほぼありえない。

もはや目指すべきものも、生活における必要性もない中で、惰性のように仕事を続けることの苦痛の中にいたのではないかと思います。

しかし引退したからと言って、翌日から一般人の北野武に戻ることもできないわけです。ビートたけしの名前と顔は一生付きまとい、穏やかな余生はありえない。

田舎で童心に帰る村川達の前に現れる殺し屋がチャンバラトリオの南方英二であるという点が象徴的なのですが、村川=たけしは同業者によって再び本業の世界に引き戻されるわけです。

なぜ村川は自殺したのか ※ネタバレあり

殺された子分の仇を取るため再び銃を手に取った村川は、ヤクザの会合へと一人乗り込んでいきます。そして数十人のヤクザを相手にたった一人で勝利した村川は、ちょっと良い仲になった幸(国舞亜矢)が待つ田舎へと戻っていきます。

しかし、もうすぐ幸と再会できるという直前で車を停めて、自分の頭を撃ち抜いて自殺。

このラストを見た時、私は「なんでだよ!」と言いたくなりました。大勝負にも勝ったし、愛する人も待っているのに、そうした幸運を全部捨てるのかと。

ただし、ここにこそ北野武の人生に対する絶望が集約されているんでしょうね。

おそらく村川は討ち入りで死ぬつもりだったのですが、そこで死ねませんでした。その前のエレベーターでの銃撃戦でも、村川一人だけ無傷でした。村川は驚異的な幸運の持ち主なのですが、それはどれだけ絶望しても最後は自分で引き金を引くしか幕引きの手段がないということでもあります。

漫才ブームで一緒に売れた仲間達がブームの終焉と共にテレビ界から消えていく中で、ビートたけしだけは生き残り続けました。フライデー襲撃事件で終わりかと思われたが、それでも復活した。このままでは死ぬまでタレントという仕事から降りられないのではないかという絶望がこの時のたけしにあったとしても不思議ではありません。

穿った見方をすると、漫才ブームで一財産作った後にフェードアウトした仲間が羨ましかったのかもしれません。勝手に売れなくなって「あの人は今」状態になれば自分はこんな苦労せずに済むのに、売れ続けるから仕事が続くし、人間関係の中で断れない話も多く出てきてしまう。

復活するたびに「よかったね」と言われるが、内心抱える「俺はもう終わりたいんだよ」という絶望が、村川を自殺させるという結末に繋がったのかもしれません。

本作が公開された翌年の1994年に、ビートたけしはバイク事故で生死の境をさまよいました。普通なら即死、よくて植物状態という大事故だったのですが、たけしはこれも生き延びて芸能界に復帰しました。絶対に倒れることのない圧倒的な強運がここでも発揮されたのです。

後年、映画評論家の蓮實重彦氏から「自殺願望があったのか」と質問された時に、北野武は「記憶がない。現場の血を見てぞっとした。『自殺したんだな』と思った。下手したらもう1回するような気がする。」と答えています。半ば自殺の線を認めたかのような回答に恐ろしくなりました。

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