(2021年 日本)
衰退する師匠と伸びていく弟子の微妙な関係が描かれた含みの多い作品であり、単なる有名人の伝記映画だと思って見た私は、その完成度に度肝を抜かれました。脚本・監督を務めた劇団ひとりの映画人としての実力は想像以上であり、軽く戸惑ったほどです。
作品解説
深見千三郎とは
本作は若き日のビートたけしと師匠の深見千三郎の交流が主題なのですが、一般的にあまり知られていない深見千三郎について触れておきます。
1923年北海道出身。高等小学校卒業後に、先に芸人として成功していた姉を頼って上京しました。
22歳で深見千三郎一座を旗揚げして全国をドサ回りし、1959年に浅草のストリップ劇場フランス座の経営に参画。ストリップの幕間のコントを取り仕切り、本作にも登場した東八郎やコント55号らを育成しました。
そして最後の弟子がビートたけしだったというわけです。
この通り多数の売れっ子芸人を輩出する大師匠だったものの、テレビ出演を嫌っていたために一般的な知名度はなく、またストリップ劇場という場所の特殊性や、昭和中頃という時代柄もあって、その舞台が映像に収められておらず、実際に舞台を見た人の記憶にしか残っていない幻の浅草芸人とも呼ばれています。
感想
劇団ひとりの底知れぬポテンシャル
本作の脚本と監督を担当したのは芸人の劇団ひとり。
実は鑑賞前には、劇団ひとりが監督することに不安があったのですが、これが完全に杞憂でした。
笑いと切なさ、暖かさと冷たさ、若さと衰退が同居した物語を見事にまとめあげているし、俳優陣からは質の高い演技を引き出しています。
また時間軸を解体してドラマチックに配列し直した構成の妙も光っており、映画人として極めて高い資質を示しています。
加えて、監督自身が芸人であることのメリットも発揮されています。
前述した通り、深見千三郎はテレビを嫌う芸人だったわけですが、劇団ひとり自身、狂気を秘めた芸風とテレビ向けの無難な顔を使い分けており、どこまで折れるべきか、薄めるべきかという芸人の葛藤を生々しく描くことに成功しています。
師匠と弟子の物語
芸事など何も知らず浅草に飛び込んできたたけし(柳楽優弥)を、面倒見の良い深見(大泉洋)が引き取るという形で二人の関係性は始まります。
当初のたけしはシャイであまり喋ることもできず、深見からは怒られてばかりなのですが、しかし本気で怒っているわけでもないという師匠の本心は伝わっている様子。
そして、江戸っ子の粋や、芸事へのこだわりを折に触れて語り、常にそれらを実践し続ける深見の姿に魅了され、師匠に近づこうと芸の勉強に熱心に取り組みます。
深見も深見で素直なたけしを気に入り、目をかけるようになります。
そこには美しい相思相愛の師弟関係があるのですが、これを下手に感動を煽ることなく描いてみせた劇団ひとり監督の手腕が光ります。私のようなひねくれた人間にすら、普通に良い話に感じられましたから。
衰退の道をひた走るロートル
ただし、中盤にて深見は相当無理をしていることが分かります。
粋で気前が良く、大師匠のような振舞をする深見ですが、その家はボロアパートの狭い一室。奥さんの麻里(鈴木保奈美)は引退せず現役ストリッパーとして働いており、この夫婦は限界に近いところでやりくりしているようです。
師匠の私生活が映し出される場面は衝撃的でしたね。
当時のエンタメは舞台演芸からテレビへとシフトしており、浅草の劇場には閑古鳥が鳴いています。フランス座も例外ではなく、借入金で運転資金を回すという火の車状態。
テレビで売れた弟子の東八郎(尾上寛之)や金貸し(風間杜夫)からは「もうやめたら?」なんて言われるのですが、当の深見にはやめるつもりがない。その背景には、経営者としての責任感の強さと、新しいものへの適応を拒む頑固さの両方があります。
経営者としての深見は、ストリッパーや売れない芸人達を抱えており、彼らが生きていける道を作らねばなりません。
「今の商売に未来はないので、もうやめます」というわけにもいかず、一日でも長く仕事場を維持することが責任となってくるわけです。これが経営者の大変なところなのですが、深見は我が身を削りながもそれを全うしようとしています。なかなかの漢ですね。
後のビートたけしがたけし軍団を抱え、自力で稼げるようになった初期メンバー以外の売れない芸人達の面倒を見続けたことは、深見の影響であることがよくわかります。
ただし、たけしにはそれをやり続けられる資金力があったのに対して、深見は原資を稼ぐ能力もないのに組織を抱え続けたという違いがあるわけですが。
では、芸人達からの尊敬を受けるだけの実力と、多くの売れっ子を見出してきた確かな目を持つ深見が、なぜ稼ぎを出せなくなったのかというと、彼の頑固さが大きく影響しています。
大衆向けにチューニングされたテレビの笑いを認めない、喋りだけで稼ぐ漫才というスタイルを邪道と見做す偏屈さが、深見を滅びゆく恐竜に、演芸の中心地だった浅草をガラパゴスへと変えていきました。
すでにその道を究めた者が、新しいものを拒み、変化に対して抵抗したくなる気持ちは分かります。
また、新しいものに対して過度に迎合する必要もないのですが、とはいえ新しい波が一過性のものではなく、今後の主流になることがほぼ確定的となった時点で、そこに巻かれにいくという判断も必要になります。
しかし芸人としてのプライドの高さと、「浅草らしさを守っているのは自分である」という気負いから、深見は柔軟な姿勢をとることができませんでした。
加えて、舞台芸人として完成されすぎていて、今更芸風を変えようもないという諦めもあったのだろうと思います。身に染み付いた芸風を今更変えようもないし、変えたくもないという。
この状況で一番大変なのは妻の麻里ですよ。
深見自身はまだいいんです。浅草では尊敬される立場にいるし、芸人のプライドを守るという個人的な欲求も満たされているわけですから。しかし麻里はひたすら縁の下の力持ちとして夫と組織を支えるのみ。
「芸人として生き生きとする夫を見るのが何よりも幸せ」というタイプなのでしょうが、それにしてもです。
自分達は貧乏しながら、その一方で身なりに金をかけ、弟子に大盤振る舞いする夫の行動を見ているって、結構大変なことだと思いますよ。
美しくも愚かな夫婦愛として私には映りました。
麻里を演じるのは鈴木保奈美なのですが、内助の功という言葉をそのまま表したような見事な奥さん像を体現しています。「こんな良い女優さんでしたっけ?」とビックリしました
弟子に追い越された師匠
一方たけしは浅草に収まるスケールの芸人ではないので、ほぼ必然のようにフランス座を去っていきます。
その際には師匠とのいざこざがあったり、芽が出ず苦しむ期間が数年あったりもするのですが、最後にはちゃんと成功を収めてスターに。
本編ではこの辺りがさらっと流されていることが残念だったのですが、師弟関係を描くことに専念し、たけし個人のサクセスストーリーをあえて捨象した劇団ひとり監督の判断の結果なのでしょう。
で、師匠の深見からすると、自分の持てる芸を教えた弟子が、自分が全否定してきた世界で成功したという状態となります。これって結構複雑ですよね。
師匠としての間違いない成果と言えるのは、たけしを見出したという部分のみであり、芸事に関しては、本当に自分が貢献できたのかが分からない。むしろ足を引っ張る局面もあったのではないかという疑念もある。
袂を分かったたけしが成功すればするほど自分の方針は間違っていたということになるので、深見は浅草を離れたたけしを忌避し続けるのですが、たけしの方から会いに来れば嬉しそうに飲みに連れて行く。こうした微妙な師弟関係が嫌味なく描かれている辺りが、本作の真骨頂であると言えます。
最後の最後で師弟のわだかまりが解けたことが幸運であると言えるし、これから親交を取り戻さねばならないタイミングで師匠が亡くなるという悲劇でもある。こうした複雑な含みを持たせた演出も見事でした。
いくらでも感動に走れたところに、ちゃんと抑制をかけたことも作品の良心となっています。
劇団ひとりには何か賞を与えてやってくださいよ、業界の皆さん。
コメント
典型的な内助の功の妻を描きたくなかったと監督が言ってましたけどね。真逆の分析かっこわる。