【雑談】私がブラック校則を擁護する理由(後編)

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ブラック校則後編では、実際に校則を廃止した桜丘中学の事例分析や、生徒を統率することの意義、教育現場の在り方とはといった項目を見ていきたいと思います。深掘りすることでメディアが報じない桜丘中の意外な実態なども見えてきて、なかなか興味深いものがありました。

校則廃止の桜丘中学校は本当に成功したのか

なにも校則で雁字搦めにしなくても、学生の自治に委ねることで秩序の維持は可能ではないかとの考え方もあるでしょう。

校則全廃どころか、チャイムも定期試験もなし、スマホ・タブレット持ち込み自由という、「試験も何にもない」をおばけ界以外でも実践し、なおかつ生徒のモラルを高めたことで注目を浴びた区立桜丘中学校の例がそれです。

校則も定期テストもない 桜丘中学校のインクルーシブ教育が「大人たち」にもたらしたもの(2020年1月15日 Forbes Japan)

こういう成功事例があるのだから校則による管理は時代遅れというのが反対派の主張です。

世田谷区だから成立したモデルではないか

ただし記事の見出しには明記されていないのですが、この話のポイントは桜丘中が世田谷区立であるということだと私は見ています。

皆さんご存知の通り、世田谷区はハイソサイエティの方々が暮らす場所です。ファミリー物件の家賃相場が24.27万円(アパマンショップHP 2021年6月16日閲覧)、普通の人が負担するにはちょっとしんどい金額であり、相応レベルの住人が集まっている場所とみて間違いないでしょう。

そして親の収入と子供の学力の間には強い相関関係があることはほぼ定説化しています。

保護者に対する調査の結果と学力等との関係の 専門的な分析に関する調査研究(お茶の水大学 2018年3月30日)

よって桜丘中学の校区にはそもそも意識の高いご家庭が多く、進学塾など学校外の教育投資も盛んなので、極端な話、学校がただの友達作りの場になっても学習面では何とかなるという下地があったと考えられます。

この仮説は、実際にお子さんを桜丘中学に通わせている親御さんの生の声にてある程度は裏付けられました。以下、学校評価サイト「みんなの中学校情報」より学習面に関する意見を抜粋します。

  • 校則をなくしてから、進学先も良くなったなどという記事を見ましたが、はっきり言って学校ではなく、個人の頑張りと塾です。先生は特に何もしてくれません。
  • 今まで学校に馴染めなかったお子さんや、トラブルの多かったお子さんは校長先生から目をかけてもらいどんどん良くなるようですが、普通の子はスルーされます。
  • 良い人はいいけど悪い人は悪いのでその人の努力次第だと思います。
  • 自主的に勉強できる子はすごく頭がいい。やらない子は悪い。
  • あんまり、良くないと思います。塾でもいつも下の方に桜丘の名前があります。個人差はあると思います。
  • 某有名私立高校や某有名都立高校の入学者は多々います。ただし、勉強面では進学塾のおかげだとおもってます。

こうした生の声も参考にしつつ、もう一度考えてみましょう。例えば家賃相場が世田谷区のほぼ半分(12.45万円)の足立区で同じ試みをして、果たして同様の成果を得られるのでしょうか?

私は他の地域での再現可能性は低いと思います。

人材の力量に依拠しすぎたモデルではないか

あと気になったのが、改革を主導された西郷孝彦校長が2019年度いっぱいで離任された後、学校が元に戻ったという声です。上記と同じく「みんなの中学校情報」より抜粋。

  • 以前の雰囲気もなくなりよくあるダメな意味での普通の学校です。以前の校長の記事など読んでいたのでとても残念です。
  • 校長が変わったせいかとてもきたいはずれでした。定期テストも復活していますし、授業内容も凡庸です。
  • メディアで取り上げられていた頃とは全然違う。あの頃に不満があった教師が多い。その反動が生徒の負担になっている印象。

西郷校長という圧倒的なリーダーがいたからこそ成立した改革というものは、当人抜きでの再現は困難となります。よってこの方法論を他校にも拡大することは不可能だと考えるべきです。

最新の文科省データだと中学校教師は246,814人いるのですが、このモデルを継承発展させられる人材はそのうちいかほどいるのでしょうか。

学校基本調査-令和2年度 結果の概要-(文部科学省 2020年12月25日)

あるモデルを試す場合には、一般的な労働者でも再現可能であるかが重要となります。高級レストランの一流シェフにしか出せない味をファミレスメニューに取り込むことなんて不可能ですよね。そういうことです。

桜丘中学の事例は極端な成功事例としては面白いし、その中から学べることもいくつかあるでしょう。しかし桜丘中学のようにやれていない他の学校が遅れているみたいな批判は的外れだと思います。

学生を統率することの必要性

利発なお子さんばかりではない

私は一般的にヤンチャなイメージのある広島県出身であり、そんな県内でも特に荒れていることで知られた地域の公立中学に通っていました。

そんな我が校区で「子供たちの自主性を信じて」「押し付けではなく対話で」なんてことをやれば、1週間と持ち堪えず教育環境は崩壊したはずですよ。これはほぼ確信を持って言えます。

皆さんも学生時代を思い返してみましょう。自分はそんなに利発な学生だったか、周囲の子達も皆そんなに立派だったか、自主的な管理で学校生活は成立したかを。嫌々ながらも従う中で全体の秩序が維持されていませんでしたか?

自主性に委ねるという試みは偶然にも地域性と人材が揃った桜丘中学だからこそ成功しただけだろうと思います。実際、この中学が話題になって数年になりますが、生徒の一元管理を放棄した自由な校風は全国に波及していませんよね。

よって、桜丘中のような素敵な事例は「荒れた校区」「最底辺校」を同じ方法論で一つでも立て直しみてから言いやがれと思ってしまいます。子供を野放し状態の家庭が多い地域では成立しないモデルです。

真面目な子供達を守るため

さて、校則を必要としているのは一体誰なのでしょうか。

批判的な記事を見ると教師が子供の管理をしやすくするためになんて書かれ方をしていて、まぁ確かにそういう面もあるにはあるのでしょうが、校則の存在によって最大の恩恵を受けているのは真面目に授業を受けている子供達です。

不真面目な子供達は教師にも迷惑をかけますが、授業の妨害をしたり学校の雰囲気を悪くしたりで、他の子供達にとっても迷惑な存在です。だからこそ現場的な対処が必要となります。

で、教師が校則を盾にして戦ってくれているからこそ真面目な子供達の環境は守られているという現実は存在しています。荒れた地域に暮らしながら不良性感度0だった私などは、武闘派の体育教師がヤンキーを叱りつけるのを心待ちにしていました。

にも関わらず不真面目な子供達の嗜好にも歩み寄りましょう、対話で解決して高圧的な管理はやめましょうなんてことになれば、教育環境は不安定化するリスクがあります。

もちろん不真面目な子供達と対話する作業が無駄とは言いません。それはそれで意義はあるのでしょうが、優先順位の付け方が正しいのかという疑問はわきます。配慮すべき相手を間違えていませんか?

結局校則を含む学校の管理方針の議論って、ちゃんと規則を守っている普通の子が視野に入っていない、ルール違反をする問題児に仕組み全体を合わせるかどうかという議論なんですよね。物凄く不毛に感じられます。私の価値観が世間一般と比べて狭すぎるだけなのかもしれませんが。

伝説と化した両さんのド正論

学校のマンパワーに限界があるため

管理や校則の話題になると、必ず「教師が手間を省きたいからだ」という批判が上がるのですが、その何が悪いのでしょうか。業務の効率性はどの職場でも求められることですよね。

上記桜丘中学への評価で気になったのが↓のコメントです。

今まで学校に馴染めなかったお子さんや、トラブルの多かったお子さんは校長先生から目をかけてもらいどんどん良くなるようですが、普通の子はスルーされます。

これは当然の反作用です。学校側のマンパワーは有限である以上、通常ならば一喝すべき不良に対して丁寧な説明をしていれば、その分、放っといても問題を起こさない普通の子のために使う時間は削られていくに決まっています。

ならばと全生徒と平等に対話していれば、それだけで先生の一日は終わります。明日の授業の準備やテストの採点などは残業してでもやれとでも言うのでしょうか。ブラック校則は批判するのに、ブラックな労働環境はOKなんですか?

言い方が悪いのは承知の上で述べますが、一部の子供のわがままを聞くために、教員の時間という貴重な社会的財産を浪費して欲しくないんですよ。

問題行動はうつる

意識や能力の高い集団の中に身を置くことで切磋琢磨しお互いを高め合う効果のことを、教育界ではピア効果と言います。綺麗事の大好きな教育界では主に良い効果のことを指すのですが、経済学者らによって負のピア効果も確認されています。

ノースウェスタン大学のフィグリオ教授によると、一人の問題児の存在によって他の生徒が新たな問題行動を起こす確率は17%高くなると推計されています。

すなわち集団内に悪い子がいれば、その他の子も引っ張られるため、真面目な子の教育機会を守るためにも問題児への対処は必要となります。

Boys Named Sue: Disruptive Children and Their Peers

現実を踏まえた議論を

美しい理念先行は「ゆとり」の二の舞

ここまで検証したうえで改めて現在の猛り狂った世論やメディアの論調を見ると、一部の学校の成功例を持ち出して「管理などせんでも子供は育つ」「生徒との対話で何でも決めろ」的な極端な物言いをしており、制度論に落とし込めてはいません。

なぜ校則は必要なのか、物わかりの良い利発な子供ばかりなのか、一般的な力量の教師でも可能な方法なのかといった全方位的な議論がなく、極端に成功した学校の事例と、極端に悪い校則の例を突き合わせて、「ほらほら、校則なんてものは時代遅れだよ」という短絡的な議論に終始しています。

しかし問題の核心を突かない批判はただの憂さ晴らしであり、本気で学校環境を良くしたいという信念が感じられません。

子供の利発さや自発的に学ぼうとする意欲なるものに依拠して豪快に失敗した「ゆとり教育」のこと、皆さんお忘れになったのでしょうか?

ゆとり教育は、「詰め込み教育」と言われる知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指した教育であり、1980年度、1992年度、2002年度の改定で徐々に内容の厳選が行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2#%E6%94%AF%E6%8C%81

「思考力を鍛える」とか「経験重視型」とかその理念は非常に素晴らしいのですが、子供とはそこまで素晴らしい生き物ではなく、押し付けられる学習内容が減った分は遊び呆けて過ごし、そこに自発的な学びの活動などは発生しなかったわけです。

その結果、公教育のみに頼っている貧困家庭の子供と、空いた時間を塾通いに充てた富裕層の子供の学力格差はより深刻になったとの指摘もあります。

美しい理念の元に始めた取り組みなのに、現実の醜さをより助長しただけだったという皮肉な結末。

この例を踏まえれば校則フリーなんてことも危ない橋であり、統制の取れた進学校に通える富裕層の子供と地元公立学校に通う貧困家庭の子供の学力格差がまた広がりそうなものですが、またしても世間は現実の醜さから目を背けて耳障りの良い理念に流されているような気がします。

必要性と許容性を区別した議論を

さらに現在の世論の問題だと思うのが、必要性と許容性をごっちゃにして捉えていることです。

  • 校則は時代遅れで子供の管理にはまったく役立っていない
  • 校則は必要だが、子供の人権への配慮が必要な時勢に合わない部分もある

反対意見を見るとこの二つの議論が混ざり合っているのですが、実は全く違います。必要性が問題となっている前者ならばさっさと止めてしまえばいいのですが、許容性が問題となっている後者ならば代替案を講じないと教育現場が崩壊します。

しかし論理的思考の苦手な日本人はあるべき論で物事を捉える傾向があり、実は必要だからやっていることでもその客観的効果すら認めず、「そんなことをやるべきではない」という短絡的で頭ごなしの論調が非常に目立ちます。

それでは教育現場が不安定になってしまい、その結果として真面目に授業を受けたいと思っている子達が最大の損害を被ることになるので、現実を踏まえた慎重な議論が起こって欲しいものです。

ブラック条項の制定趣旨を考えるべき

ただし私とて校則を聖域化せよと言っているわけではなく、文科省の通達通り「社会の常識や時代の変化を踏まえ、絶えず積極的に見直さなければならない」ということが正しい姿勢だと思います。

例えば半世紀前にジーンズは不良の象徴で禁止する学校も多かったのですが、今では誰でも身に着けるファッションなので、規制することに何らの意味もありません。

ちなみに公認会計士試験合格者は、合格後3年間は実務補修所なる場所に通わなければならないのですが、補修所の規定では21世紀に入ってもジーンズ禁止条項はまだ残っていました。ロクに改定もされず放置されているのでしょう。こうしたものは変えればいいわけです。

そして「社会の常識や時代の変化を踏まえ」とは、制定当時と現在との環境変化を認識するということであり、そのためには制定当時の状況やそもそもの制定理由の理解が大前提となります。

ネット上などでブラック校則の例として、↓がよく挙げられています。一見すると不合理に感じられるこれらの条項にも、それぞれ意図はあるはずです。

  • 下着の色の指定
  • 登下校時の飲食禁止
  • 登下校時の寄り道禁止

下着の色の指定は確かにセクハラっぽいのですが、制服や体操着の素材との兼ね合いで透けて見えやすい場合もあるので、それを防ぐためと考えると合理性は感じられます。

「なんで下着が透けて見えちゃいけないんだ」みたいな低レベルの反論もあるかもしれませんが、私服を想定した時に、下着透け透けの恰好なんて恥ずかしくてできませんよね?もし友達が待ち合わせ場所に下着透け透けで来たら全力で注意してあげますよね?

なんでそんな恥ずかしい恰好を制服でなら平気でできるんでしょうか。明らかに認知バイアスがかかっている場面であり、こればっかりは取り締まってあげている側が正しいとしか言いようがありません。

登下校時の飲食禁止については、食事はともかく水分補給もできないとなれば健康被害が心配になるので、批判はごもっとも。

ただし通学路でのポイ捨てが酷くて近隣住民からの苦情が来て、ポイ捨て禁止を訴えても効果がなかったので仕方なく飲食そのものを禁止したという背景があったとすれば、校則の縛りを受ける学生達を100%の被害者とも言えなくなります。

寄り道禁止も同じく。放課後にどこへ行こうが勝手だろ、帰りがけに買い物できないと不便だろという批判はごもっともなのですが、もし近隣からの切実な苦情がきっかけだったらどうでしょう。

たったひとつの品物を買うために4~5人の友達をぞろぞろ引き連れて入店し、本来であれば数分で終わる買い物なのに数十分も店内を物色し、買わない品物にまでみんなで手を付ける。

中高生の頃にこういうことをしてしまった記憶は私にもありますが、その被害があまりにも酷くて商売にならないと近所の商店が苦情を入れてきて、学校が対策せざるを得なくなったとしたら、これをブラック校則とは言えなくなるでしょう。

このように、表面的にはブラックと思われる条項がなぜ制定されたのかを考えることは大事だし、子供達にこうした思考を積極的にやらせることこそが真に教育的な態度と言えるのではないでしょうか。

そして積極的に理解しようとしない子供に対しては、分からなくても規則にだけは従えという二段構えの対応でいいと思います。

理解する気のない子への糠に釘状態の説明のために、教師の貴重な時間を費やすべきではないし、規則が折れる必要もありません。無理を言えば道理が引っ込むような対応をとれば、それこそ不条理で非教育的です。

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