ムカついたというか、悲しいというか、ショックというか、とにかく残念なことがあったので、超久しぶりに雑談を書きたいと思う。
部下の送別会の話
最近、私の部下が会社を退職した。
本人は「やりたいことができた」「新しい目標に向かっていきたい」と言い繕っていたが、きっと今の職場への不満があったのだろう。
上司として問題に気づいてやれなくてごめんという思いと、不満があるのなら相談してくれればよかったのにという思いを抱きつつも、お互い、事が荒立ちそうなことは口にせず紳士的に退社交渉を終わらせた。
残念なことではあるが、彼はこの会社を去っていく。とするならば、送別会をやってあげないといけない。
私は送別会を大事にしている。
私自身、転職を繰り返してきた身なので、送り出されるということを何度も経験してきた。
退社が決まり職場内で周知された途端に周囲がよそよそしくなり、結局送別会もなく終わった職場と、ちゃんと送別会を開いてくれて最後の挨拶ができた職場とでは、今の私の中に残っているものはまったく違う。
後者の方が圧倒的に良い印象で残っている。職場の全員で盛大に送り出してくれた会は本当にうれしかったし、特に仲が良かった元上司・元同僚との関係は今でも続いている。
そしてご縁とは思いもよらぬ場面で効果を発揮するもので、私自身も過去のご縁に何度か救われてきた。
退社したからと完全に切れてしまうのは勿体ないことで、去る側にとっても残る側にとっても、送別会という良い思い出で締め括り、職場は違えど仲間意識を持ち続けることは重要なのだ。
特に今回退職した彼は、上司の私と違って人当たりが良く、優秀で、若いながらもみんなに頼られてきた。自分の仕事はとっくに終わっているのに、残業してでも遅れている人を手伝う立派な男だった。
彼にお礼を言わなきゃいけない人は社内に大勢いるので、退社する本人に送別会を開いていいかどうかを確認したのち(これ重要!)、私はすぐに会の準備にとりかかった。
とはいえこういう時代なので、職場全員参加という形をとるべきではない。
仕事上、特に関係の深かった10数人に絞って声掛けをしたのだが、衝撃的なことに参加の意思表示をしたのがたったの3名で、残りの奴らは断ってきやがった。
繰り返すがこういう時代なので、私はその返事を黙って受け入れたが、はらわたは煮えくり返っていた。
みなさま随分と充実した私生活を送っておいでのようで、口々に「予定が入っている」とおっしゃる。
本当に先約があるにせよ、さんざん世話になってきた同僚が辞める最終日の、ほんの数時間よりも優先すべきことって何なのか?
しかも私が声掛けをしたのは送別会の2週間も前である。直前で言われたのなら調整しようもないだろうが、2週間もの余裕があれば、たいていのことには融通が利くだろ。
要は、「世話になった同僚の送別会に出る気はない」という人間が大半だったってこと。
もしかすると声掛けをした私が嫌われているのかもしれない。別の人が主催者ならばもっと人は集まったのかもしれない。
・・・にしても、送別会は去っていく人のための席である。どれだけ私が嫌われ者のCFOであるにせよ、それはそれ。彼への恩義のある人達は出席してしかるべきだろう。
こんなにもドライで礼節のない人たちだったのかと落胆し、退社を決めた彼の気持ちがわかったような気がした。
入退社する仲間のためのイベントにすら平気で不参加と言える人達は、社会人として、大人として、ヒトとして、本当にどうかと思う。
飲みニケーションを全否定すべきではない理由
飲みニケーションという言葉が否定的に使われるようになって随分と経つ。
私が新卒だった20年前には上司との飲み会は日常で、アルコールに強くない私は嫌な思いを何度もしてきたので、飲みニケーションというものにはそもそも否定的である。
会社の営業部などを見ていると、いまだに飲みの席じゃないと部下の情報を取れない残念な部長・課長もいて、ああいう奴らには管理職教育をやり直さないといけないかもねなんて思っている。
しかし、そんな私をもってしても、歓送迎会を含め職場の飲み会に一切出ないという意見には賛同できない。
過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉がある。
事あるごとに飲み会を開く上司もダメだけど、時間外の飲み会には一切出る気はありませんと強硬な主張をする若手社員も、同じくらいダメだと思う。
会社は労使間の双務契約を基礎とした仕事場であるとはいえ、その基本単位は人間である。
人間にはどうしても感情がある。相手を理解しようとすれば、相手も自分を理解しようとしてくれる。そうして理解者が増えれば増えるほど、仕事はやりやすくなっていく。
会社が全員参加に近い形で呼びかける飲み会など年に数回程度である。
年に数回、数時間の飲み会にすら、給料が発生しないのなら参加したくないと言うのは、職場の先輩や同僚たちに向かって、あなたたちは金が発生しないと付き合う価値がありませんと言っているようなものだ。
そのような態度をとる人間が職場から理解してもらえるはずがない。
仮に会社が究極にドライに割り切ったとしよう。
飲み会も、挨拶も、礼節も、ベンチャラも、もう何も要らない。どんなに態度が悪くても評価に一切影響させず、仕事のみで見ると。
とするならば「与えられた仕事は1秒たりとも締め切りに遅れるなよ。一つのミスも犯すなよ。こっちゃ給料払ってんだからな、ぁあん?」となる。
経営サイドにいる私としては、これはこれでいいような気もしてきたが、現実的に考えて、こんな要求値に応えられる従業員は若手・ベテラン問わず皆無である。
結局職場とは持ちつ持たれつで成り立っているのだから、人間としての付き合いを一切やりたくないという理屈は、やがて自分自身の首を絞めることになる。
そもそも、年に数回、数時間すら食事を共にしたくないという職場に、なぜ居続けるのかも分からないが。
そこまで人と関わり合いになりたくないのなら、フリーランスとして黙々とジョブをこなす立場になれば気楽だろうに。
結局、みんな会社という組織に甘えたいのだ。
甘えたいのに、人間関係を維持する努力はしたくないという幼児並の社会人が増えてきたので、いろいろとおかしくなっているのだろう。
以上、おっさんのどうしようもない愚痴にお付き合いいただき、ありがとうございました。
コメント
今はビジネスとプライベートタイムの区別ははっきりさせるのが主流な時代ですから、もう諦めた方が良いのでは?
送別される人も、集まった人数を見てショックを受ける可能性もあったりとデメリットの方が大きいと個人的に思いますよ
参加人数が少ないことに対しては、普段の会社の飲み会ではまず使わないレベルの高いお店にして、あえて人数を絞りました感を出すつもりですよ
コメントしたことはなかったですが
ブックマークして、よく見させていただいてます(面白いです)
こちらの記事、脳内でジェイソン・ステイサム(cv:山路和弘)が
しゃべってるかのように再生されました
筋を通す、通してきた、通したい人間の主張には
それなりの箔が備わって読めるがゆえかと感じました
誰も来なければ、自分ひとりでも部下を労えばいいし、
ひとりでも労ってくれる人がいれば辞める人も悪い気はしないでしょう
ひとりも送別会をしてくれる人がいないよりはマシですし
むしろ同僚たちがどういう人間だったかの答え合わせにもなるのだから
送別会への招待が
「物体X」で誰が人間かテストする、アレと同じだと思えば
集まった人たちで楽しくなれるのでは?
「俺たち人間でよかったなー」と
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
また、コメントいただけて嬉しい限りです
ジェイソン・ステイサムの声で再生いただけているのは光栄ですね
実際にはあんなに男らしくもないのですが(笑)
「物体X」の例えのように、この送別会に来たメンバーの結束は固くなるでしょう
こうして何年もかけて、強いチームを作っていこうと思っています
まったく同感です!
「結局職場とは持ちつ持たれつで成り立っているのだから、人間としての付き合いを一切やりたくないという理屈は、やがて自分自身の首を絞めることになる。」
いいこと言いますねー。
よく拝読させていただいております。雑談の記事も面白いです!
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
私はフリーランスになるという選択肢も十分にありうる資格業をしているので、会社に守られながら「仕事とプライベートを切り分けたい」という意見が浅はかに感じられるんですよね。
そこを切り分けた世界がどれだけ大変か知ってる?と部下たちに聞きたくなります。
本当に聞くとパワハラだ何だとうるさいので実行には移せない弱虫ですが(笑)