(2016年 アメリカ・スペイン)
ファンタジーは現実の合わせ鏡とも言われるが、圧倒的なビジュアルセンスと華麗な構成によって人生訓を語った本作は、ファンタジーの理想形とも言える作品に仕上がっている。怪物の描写は力強く、芸術的な映像表現もあり、最後には大きな感動も待っている。掛け値なしの傑作である。
作品解説
監督はスペインの映像派J・A・バヨナ
本作を監督したのはフアン・アントニオ・バヨナ。
この監督はスペイン出身で、同じくスペイン語圏の出世頭であるギレルモ・デル・トロに見いだされて『永遠のこどもたち』(2007年)で長編監督デビューし、2007年のスペイン映画では最高の興行成績を記録した。
続いてユアン・マクレガー一家がスマトラ沖地震に巻き込まれる『インポッシブル』(2012年)を監督して、ファンタジーだけではなくリアルなディザスター描写も扱えることを証明し、そのビジュアルセンスに注目が集まった。
そして本作での高評価を経てハリウッドの注目監督となり、ブラッド・ピット製作の『ワールド・ウォーZ』の続編の監督に内定したのだが、同作の企画が滞っている内にユニバーサルからの秋波を受けて、『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018年)の監督に鞍替え。全世界で13憶ドル以上を売りあげる大ヒットとなった。
現在は、Amazonが公共事業並みの製作費をかけた『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』(2022年)に製作総指揮及び主要監督の一人として関与している。
感想
良い映画すぎて腰を抜かした
随分前から存在を知っていたものの、さほど興味がわかず長らくスルーしつづけてきた映画。Amazonプライムのもうすぐ配信終了一覧に入っていたので駆け込みで鑑賞したのだが、なぜもっと早く見なかったんだと後悔するほどの良作だった。
内容はタイトルの通り。いろいろと家庭環境に問題を抱えた少年が、怪物から人生訓を教示されて、ままならぬ我が人生に向き合う術を身に着けるというもの。
SFやファンタジーとは「陳腐な人生訓」を語るのにはうってつけの場であり、もしもリアルなドラマでそれを言ってしまうと「そんな正論聞き飽きたわい」という説教であっても、ファンタジーの体裁をとることでスッと入ってくるものだ。
本作はまさにその効果を狙った作品であり、原作は児童文学らしいのだが、問題を抱えた子供がメンター的な相棒との関わり合いの中で一皮むけるというストーリーは、まさに王道。
そこに説得力のある演技、圧倒的な映像センス、手の込んだ視覚効果が絡んできて、見事な芸術作品として仕上がっている。
そうして見事な世界観を作り上げたからこそ、そこで語られる人生訓も説得力が違う。
最大の見せ場は主人公の少年と、その祖母のシガニー・ウィーバーが車内で対話する場面だったりするのだから、やはり本作は優れたドラマ作品なのである。
見たことが人生の宝になる作品というものがあるが、本作はそのレベルに達していると言える。
可愛げのない少年と暴力的な怪物
主人公は13歳の少年コナー(ルイス・マクドゥーガル)
日本で言えば中1に当たる年齢なのだが、コナーは他の同級生よりも体が小さく、精神的にも幼い。
両親は幼少期に離婚しており、以来、コナーは母親(フェリシティ・ジョーンズ)との二人暮らしを送っている。彼の母親に対する精神的な依存度は一般的な子供と比較してもかなり強めなのだが、その母親は難病で余命いくばくもない。
親離れと精神的な自立という課題を突き付けられるコナー少年だが、なぜ自分だけがこんな不幸な目に遭わなければならないのかという不満がハッキリと顔や行動に表れている。
この状況下で最大限の保護を与えてくれる祖母(シガニー・ウィーバー)に対して邪険な態度をとり、終始暗いオーラを漂わせているので学校での人間関係もうまくいっていない。
映画では割愛されているのだが、母親が難病治療中という情報がクラス内を駆け巡ったことで、他のクラスメイト達がコナーに対してどう接していいのか分からなくなり、それ以来、彼は浮いた存在になったとのことである。
原作にあったこうした外的要因を映画版では削除したことで、本作はコナー少年の内面の問題のみに焦点を当てようとしていることが分かる。
登場場面でのコナー少年は観客の目にも「可愛げのないガキ」であり、彼が置かれている可哀そうな境遇を差し引いてもなお、もっとうまく立ち回れよと思ってしまう。
そうした一連の態度が災いしてか、この激変期においてもコナーには指導者や相談相手が不在であり、そのブランクを埋めるかの如く現れたのが、巨大な木の怪物(リーアム・ニーソン)である。
ただしこの怪物は本当に超自然的な存在というわけではなく、主人公のイマジナリーフレンドであることは初登場の瞬間から明らかであり、現実を受け入れたくない自分と、そうは言っても成長せねばならぬと思う自分のせめぎ合いが本筋だったと言える。
で、この怪物なのだが、これまた理想的な個性の持ち主とは言い難い。
とにかく高圧的で暴力的、力での現状変更を是としているかのようである。だって怪物だもの。
そんな理想的ではない少年と怪物のコンビなのですぐには感情移入ができず、最初はとっつきにくさを感じた。
それを補ったのがフアン・アントニオ・バヨナ監督の圧倒的なビジュアルセンスであり、本作は見て楽しむ映画としても機能している。
怪物が動き出す場面の物々しさはどうだ。その破壊の凄まじさはどうだ。本作は立派な怪獣映画として機能している。
かと思えば、怪物がささやく物語では水彩画のような美しいビジュアルが炸裂し、この監督が写実的な破壊描写も、美意識に溢れた幻想的な描写も、どちらもイケることを見せつける。
この両方を同時にこなせる監督ってそうそういないのではなかろうか。
例えばデヴィッド・フィンチャーにティム・バートンのような画を撮れと言っても無理だろうし、その逆もまた同じくだろうが、この監督はその両方が出来てしまうのである。
そうして前半部分では圧倒的なビジュアルで観客を魅了してキャラクターの弱みを補いつつも、後半に向けては俳優の演技やストーリーに主軸を移してビジュアルを控えめにする。そのバランス感覚も良い。
映像派の監督は、ともすればビジュアルを押し出すことに腐心してしまうのだが、この監督は映像を従たるものとして扱って、あくまでストーリー中心の姿勢を崩さない。それもまた凄いことだと思う。
3つの物語+1 ※ネタバレあり
怪物は毎日0:07に現れては、コナー少年に3つの物語を示す。まず一つ目は王子と魔女の物語。
王子と魔女の話
先王の妃の正体が魔女で、王子は恋人を殺されたと言って魔女を追放するのだが、実は魔女は何も悪いことをしておらず、玉座の簒奪劇は王子の陰謀だったことが分かる。
しかしこの王子による統治で王国は繁栄したし、もしも魔女が在位を続けていれば、そのうち本性を表して何か悪いことをしたかもしれない。
この話が言いたいのは、人間万事塞翁が馬ということだろう。
一見、不幸に思えたことが幸運に繋がったり、その逆だったりもするので、目も前のことにくよくよしすぎず、あるがままを受け入れてもいいんじゃないのというマインドの持ち方である。
これはコナー少年のみならず多くの人が心がけておきたい人生訓なのだが、見事な語り口で美麗な映像によって、この古臭い教訓をハッと再認識させられた。
調合師と牧師の話
二つ目は頑固な調合師の物語。産業革命期に昔ながらの薬を作る調合師がいたが、短気で強欲な性格で住民たちからは嫌われており、若く人気のある牧師からの糾弾に遭って廃業を余儀なくされる。
また調合師は、牧師の庭に生えているイチイの木を使えばどんな病も治せるクスリを作れるので、木を切って使わせて欲しいと頼むが、牧師からは拒否される。
なのだが、牧師の娘達が病に倒れ、どんな治療を施しても治らなかったことから、彼は調合師の元に薬を作るよう懇願に行く。が、調合師は彼らを見捨ててしまう。
この一連の様子を見ていたのが語り部である怪物で、彼は立ち上がって罪を罰しに行く。
ただしその対象は頑固な調合師ではなく牧師の方であり、信念をコロコロと変えた姿勢が断罪される。
この話が言いたいのは、物事をやり遂げるには信念が重要であり、信じ切る気持ちがなければ成功は遠のくということ。
そして添い遂げられると確信できるもののみを信用せよ、安易に信念を曲げられるようなものを熟慮もなしに信用するなということである。
この牧師が調合師を間違っていると糾弾するのであれば、その行為が正しいと確信できるまでに自分の考えを練り込むべきだった。
自分の都合次第で撤回するような安易な姿勢で他人を非難すべきではなかったし、状況が変わればアッサリ捨てられるほど信仰に厚くなかったことも問題だった。その程度の姿勢では何も救えない。
信仰が正しいと思うのであれば徹底してその力での問題解決を目指すべきだったし、信仰にそんな力がないのであれば、そもそも信じる対象を間違っていたということになる。
本当にこれでやれるのかという熟慮は一応信じてみた後ではなく、信じる前にすべきだった。
誰からも見えない男の話
三つ目は誰からも見えない男の話。とはいえ透明人間ではなく周囲から無視され続けた男の話なのだが、この前提を聞かされた瞬間に、聞き手だったはずのコナー少年の心にスイッチが入る。
コナーは自分の尊厳を軽んじるいじめっ子に襲い掛かり、病院送りになるほど激しく殴りつける。
これは物語の主人公はコナーだったのである。
コナーは自分の尊厳を取り戻そうと暴れたが、そのことで浴びた注目によって余計に周囲との溝は深まり、居心地の悪さは増した。これなら無視され続ける方がマシだというほどに。
この話にだけは分かりやすい説明がつかなかったのだが、推測するに、過剰な自意識は身を亡ぼすということを言いたかったのかもしれない。
注目とは周囲から注がれるべきものであって、自ら求めにいけばさらに事態は拗れるという。
コナーの物語
3つの話を終えた怪物は、今度はコナーに真実を話せと迫る。
すると冒頭と同じく地面が割れ、地割れに落ちそうになる母から手が離れてしまう。
しかしコナーは認める。手が離れたのではなく、手を離したのだと。
愛する母親の闘病を見ていることが辛すぎて、母に生きて欲しいと願う一方で、この状態が早く終わって欲しいと願ってしまった自分の心の弱さをコナーは認める。それを優しく許す怪物。
これまでの3つの物語は善悪では割り切れない複雑な人間心理を示したものであり、自分の心の闇を責めるコナーに許しを与えることこそが、怪物の目的だったのである。
怪物の正体とは ※ネタバレあり
怪物との対話によって成長したコナーは、苦手だった祖母とも和解して新たな人生を受け入れる。
では怪物の正体とは何だったのか?
先ほど、コナーのイマジナリーフレンドと書いたが、しかし完全にコナーの創造の産物というわけでもなく、彼が語る人生訓には原型があった。そのヒントが示されるのがクライマックスである。
祖母が整えた子供部屋にコナーが入ると、そこには母の思い出の品々が並べられている。
そんな中に幼少期の母が書いたと思われる絵本があるのだが、そこにはコナーが怪物から聞かされた物語のイラストもある。
すなわち例の物語は母から子へと伝承されたものであり、平時にはコナーが軽く聞き流していた内容を、母を亡くすかもしれないという緊急時において反芻していたということが分かる。
では、幼少期の母はその話を一体誰から聞かされたのかというと、机の上にちらっと映る写真にあるリーアム・ニーソンの姿から、リーアム・ニーソン=怪物=祖父であるこということが分かる。
今は亡き祖父の人生訓が母親に伝わり、そして孫のコナーの窮地も救った。
世代を超えて伝承され、人生に影響を与える物語の力強さを示したこのオチも完璧だった。
本作は見たことが人生の宝になるレベルの作品なので、急いでBlu-rayを注文してしまった。それだけの感動と収穫が本作にはある。
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