シン・レッド・ライン_睡眠導入映画【5点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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戦争
戦争

(1998年 アメリカ)
興味深い人間ドラマ、壮絶な戦闘、意義深いメッセージと、名作らしい要素は揃っているのですが、面白さを意図的に排除したポエムの連続なので、まったくもって面白いとは感じませんでした。もっと観客の生理に配慮した作風にすればよかったのに。

作品解説

変人監督テレンス・マリック 20年ぶりの作品

テレンス・マリックはクエンティン・タランティーノやデヴィッド・フィンチャーに影響を与えた『地獄の逃避行』(1973年)と、 カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した 『天国の日々』(1978年)の2本を1970年代に監督し、ハズレなしの若手監督として脚光を浴びていた人物でした。

しかし監督としてまさにこれからというところで表舞台から姿を消し、本作が公開される1998年までの20年間は新作を発表していませんでした。

『天国の日々』の次回作として、後に『ツリー・オブ・ライフ』(2011年)として実現する企画に取り組んでいたのですが、ビッグバンに始まる生命史を描く壮大な作品だけに多くのスタッフが関わっており、その重圧に耐えられなかったことが失踪の原因だったようです。

なお、失踪前のマリックはパラマウントから『エレファント・マン』(1980年)の監督の打診も受けていたのですが、そちらはプロデューサーのメル・ブルックスが推すデヴィッド・リンチに決定。マリックとリンチはAFI(アメリカ映画研究所)の同期でした。

他に『タクシードライバー』(1976年)の脚本家ポール・シュレイダーや、本作を含むマリック作品のすべてに参加している名美術監督のジャック・フィスクもAFIの同期に当たります。って、メンツ凄すぎでしょ。

もともと仲が良かったのがリンチとフィスクで、『地獄の逃避行』のスタッフを探していたマリックにリンチがフィスクを紹介したのだとか。そしてフィスクは『地獄の逃避行』の現場で出会った女優シシー・スペイセクと結婚しました。

気難しい変人として有名なマリックやリンチと付き合い、婚姻関係の移り変わりの激しいハリウッドにあってシシー・スペイセクとの結婚生活を50年近く守り続けているジャック・フィスクという人物は、底抜けに良い人なのだろうと思います。

って、脱線してきたので話を本作に戻します。

きっかけはペテン気質のプロデューサー

1988年頃にマリックはプロデューサーのロバート・マイケル・ゲイスラーとジョン・ロバデューから小説『ホワイト・ホテル』(1981年)の脚色依頼を受け、それはやりたくないけどジェームズ・ジョーンズの作品ならやってあげるよというわけで、その代表作のひとつ”The Thin Red Line”(1962年)の脚色を引き受けました。

マリックは25万ドルのギャラを受け取り、5か月後には300ページのドラフトを提出。

この二人のプロデューサーはロバート・アルトマン監督の『ストリーマーズ 若き兵士たちの物語』(1983年)を手掛けた実績こそ持っているものの、エンタメ業界にありがちな誇大発言&ペテン気質の人物だったので、業界内での評判は芳しくありませんでした。

『ストリーマーズ』にしても、『ポパイ』(1980年)を大コケさせて映画の仕事ができなくなっていた時期のアルトマンに取り付いて作らせたものであり、本当に彼らの人脈であるかと言われると微妙です。

そんな二人ですがマリックのビジョンには心酔しきりで、ぜひとも『シン・レッド・ライン』の製作に取り掛かりたいと思っていたのですが、90年代初頭のマリックは森鴎外の小説『山椒大夫』(1915年)の舞台化に熱中しており、二人はこれに付き合わされることになります。

どうしてもマリックを手放したくないゲイスラーとロバデューはありとあらゆる気まぐれに応えるようになっており、マリックにとってはいい金づるでした。

打合せ場所に高級ホテルを指定されたり、迎えにはリムジンを寄越せと言われたり、趣味用なのか仕事用なのかよく分からない高価な書籍を買わされたり、果てはマリックがパリのアパートを購入するための住宅ローン申請にまで協力させられたりで、200万ドルが浪費されました。

1995年、マリックへの投資もかさんできたことから本作の製作を本格化したいゲイスラーとロバデューは、大物プロデューサー マイク・メダヴォイをプロジェクトに引き入れます。

メダヴォイは1970年代にトライスターやユナイテッド・アーティスツで製作責任者として辣腕を振るい、1978年にはオライオン・ピクチャーズを共同設立した大物であり、若い頃にはマリックのエージェントも務めていたことから、監督との面識もありました。

メダヴォイが支度金10万ドルをポンと拠出し、彼の人脈で大手スタジオが動き出したことからマリックにもいよいよ火が点いたのですが、大物参入によって大作経験のないゲイスラー&ロバデューはお役御免となりました。

作品のクレジットに名前こそ残しているものの、撮影現場への出入りは禁じられ、作品賞にノミネートされたアカデミー賞授賞式にも出禁。

元々問題のあった二人とはいえ、プロジェクトの立ち上げに貢献した人物への処遇としては度を越しており、変人監督マリックの容赦のなさが光ります。

ハリウッドスター使い放題

大物プロデューサー マイク・メダヴォイの参加により本作はハリウッド界隈で話題の作品となり、あらゆる俳優が出演を望みました。

ブラッド・ピット、アル・パチーノ、ゲイリー・オールドマン、ジョージ・クルーニーらはノーギャラでもいいから何かないかと言い、ブルース・ウィリスはキャスティング担当者が自分と面接してくれるならこちらでファーストクラスのチケットを手配すると提案。

またマシュー・マコノヒーは『評決のとき』(1996年)の撮影を一日休んで、レオナルド・ディカプリオはメキシコで撮影中だった『ロミオ+ジュリエット』(1996年)の現場を一時的に離れてまでマリック詣に出向きました。

こうしてマリックはスターを自由自在にキャスティングできたのですが、撮影を経てポストプロダクション段階に入っても、彼は俳優を豪快に扱い続けます。

本作の主演はウィット二等兵を演じたジム・カヴィーゼルとされているのですが、原作の主人公はファイフ伍長であり、脚本レベルでもファイフの出番が最も多く、これを演じたエイドリアン・ブロディは自分が主演だと思っていました。

実際、ファイフ伍長の場面は多く撮影されたらしいのですが、ポストプロダクション段階でそのほとんどがカットされてしまい、最終的にはセリフらしいセリフのない脇役の一人にまで降格。

それでも登場場面が残されているだけブロディはマシで、ビル・プルマン、ルーカス・ハース、ミッキー・ロークは出演シーンをすべてカットされました。

同じく、ビリー・ボブ・ソーントンが務めたナレーションも全カットされました。

ベルリン国際映画祭金熊賞受賞

本作は公開されるや批評家からの絶賛を受け、1999年2月に開催されたベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞。

またアカデミー賞では7部門にノミネートされましたが(作品賞/監督賞/脚色賞/撮影賞/音楽賞/音響賞/編集賞)、こちらでは全部門で受賞を逃しています。

感想

何度見ても眠たくなる

「伝説の監督の復活作!」と騒がれたので劇場公開時に鑑賞したのですが、全編を貫くポエム、戦闘が始まって面白くなりかけるとまたポエムという構成には容赦なく眠気を誘われ、何度も寝落ちしかけながら3時間を完走しました。

当然、面白いとは感じませんでした。

とはいえ公開時から一貫して世評の高い作品なので、その後も何度かトライしてみたのですが、何度見ても眠くなり、私の感想は変わりませんでした。

そしてこの度、Netflixでの配信がなされているのを発見したことから、前回鑑賞から10年ぶりの鑑賞をしてみたのですが、やはり眠かったですね。歳のせいか3時間を完走できず、午後の部と夜の部に分けて鑑賞してようやく見終わりました。

当然、面白いとは感じませんでした。

面白いキャラはいる。ただし脇役

とはいえ多くの俳優が夢中になった企画だけあってキャラ造形は多彩であり、特にトール中佐とスタロス大尉の関係には興味深いものがありました。

バリバリの職業軍人であるトール中佐(ニック・ノルティ)と、開戦に伴って徴兵された弁護士出身のスタロス大尉(イライアス・コティーズ)は事あるごとに対立するのですが、叩き上げ軍人の風格を漂わせるトールの方には実戦経験がなく、一方いかにもインテリなスタロスの方が最前線のことをよく知っているという、普通の映画には見られない捻じれた関係となっています。

ただし言われてみれば確かにそうで、軍隊の偉い人たちは戦前に入隊し、本物の戦闘を経験することなく指令系統に収まっており、一方で彼らよりも格下とされる新兵の方が遥かに実戦経験豊富なのです。

例に漏れずトールも武勲をあげて出世したのではなく、上司に媚を売り、軍隊に尽くすことで出世してきました。年下のトラボルタ准将におべっかを使うトールの姿は、涙なしには見られません。

そのコンプレックスを晴らすかの如く、トールはガダルカナルで戦果をあげることに躍起になりますが、如何せん実戦経験がなく無茶な精神論をまくし立てるだけなので、最前線の兵士達は大迷惑。

この辺りはサラリーマンの世界と似てますね。バブル期のやれば成果のあがる現場で育った役員達が「それくらいできるだろ」と好き勝手なことを言って、厳しい時代に最前線に立たされる部下達が迷惑するという。

他にも、妻のために将校の地位を手放して一兵卒として戦い、辛い戦場でも妻のことを思って頑張ってきたのに、安全な祖国にいる妻から「さみしいので別れます」と言われてしまうベル二等兵(ベン・チャップリン)も、男として同情しまくりです。

ですが、このようなおいしい人物達はことごとくスルーされており、一方で本作の中心となるウェルシュ曹長(ショーン・ペン)やウィット二等兵(ジム・カヴィーゼル)の人格にはあまり特徴がありません。

この辺りが芸術家肌の監督ならではの曲がったところですね。

面白いキャラを作る能力はあるのに、わかりやすい人物を描くことに照れて観客の生理と逆のことをしてしまうという。

戦闘場面は前半のみ

戦闘場面は凄まじい迫力で、伝説の監督の底力を見せられた気がしました。

高台にトーチカを構えて徹底抗戦を行う日本軍に対し、丘陵を占領したい米軍が突撃をかけるという図なのですが、米兵が物陰から顔を出した瞬間に日本軍の銃弾を受けるという戦いは熾烈の一言。

戦車も戦闘機も登場しない歩兵同士の戦闘には命のやりとりという生々しさがあり、人的損耗の激しさは、戦争とはまさに地獄であることを示しています。

さらには走っている俳優のすぐ近くで爆破という、かなりの危険を冒して撮ったと思われるショットも連続し、そのリアルガチな作風ゆえの緊張感は画面越しにも伝わってきました。

ただし、素晴らしい戦闘場面は前半部分で終わり。小休止を挟んでクライマックスにも凄い戦闘があるのかと思いきや、後半部分はほぼポエムで戦闘場面はちょこっとだけという壮絶なことになっています。

監督は観客にサービスすると負けだとでも思っているのでしょうか。

3時間も必要だったのか

ではこの映画が一体何を言いたかったのかというと、人間とは終わりなき争いの中に居るどうしようもない存在ですよということなのでしょう。

後半にて、ウィット二等兵は現地人の村を訪れます。これはウィットが逃亡して現地の平和な生活に溶け込んだ冒頭と対になっているのですが、今度は現地人同士が何やら争っているし、家の中にはライバル部族と戦争をした証と思われる頭蓋骨も飾られている。

自然に近い現地人はピュアなんてことはなく、人間居るところ、常に争いありというわけです。

クライマックス、ガダルカナルから撤退する隊と、これから上陸しようとする隊が洋上ですれ違う際の、くたびれた顔をした兵士の顔が象徴的なのですが、人間同士の戦いには永遠に終わりがないわけです。

これが本作の結論なのですが、これを述べるために3時間もかける必要はなかったかなというのが率直な感想です。

面白い場面を繋いでスピーディーに展開させても、同じメッセージは残せたかなと。

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