(2016年 韓国)
躊躇のない残酷描写、山間の村のおどろおどろしい空気には息を吞むものがあったが、雰囲気で引っ張るのに156分は長すぎる。途中で飽きた。あと善悪がコロコロ入れ替わる構図はB級映画『エイリアン・コップ』(1990年)の影響かなとも思ったりで(多分違う)

感想
前々から存在を認識していたけど、156分という長すぎる上映時間がネックで敬遠しているうちに、公開から8年も経っていた映画。この度、Amazonプライムの近日配信終了一覧に入っていたので、駆け込みで鑑賞した。
配信終了日の22:00に見始めたので、一時停止をせずに見てもラスト36分は間に合わないかもなぁという不安はあったけど、Amazonは再生を始めると最後まで視聴させてくれる親切設計となっているらしく、配信終了時刻をまたいでも最後まで見ることができた。
ホンマに、Amazonさんの優しさは5大陸に響き渡るでぇ。
主人公は田舎の村コクソンの警察官ジョング(クァク・ドウォン)。
妻子、義母と同居のマスオさんライフを送る平凡な警察官で、殺人事件発生の一報を受けても「飯を食ってから行け」という義母からの指示を優先するスローライフの実践者でもあった。
そんなジョングが凄惨な殺人事件に捜査関係者として立ち合い、やがて当事者として巻き込まれていくというのが、ざっくりとしたあらすじ。
冒頭よりルカによる福音書の引用が出てきて、日本人の不得意科目である聖書絡みかと最初は身構えたんだけど、実のところ聖書はあんまり関係なかった。
ちなみにキリスト教圏の人だからと言って、聖書の内容が分かるわけではないらしい。
米国聖書協会(ABS)の調査によると、「教会以外で毎年少なくとも3~4回は聖書を利用している人」の割合は米国成人のうちたったの39%だった。聖書をまったく読まない、読んでも年1~2回程度という人が過半数を占めているのが実情なのだ
「ミッション:インポッシブル」の第一作では聖書からの引用が暗号として使われていたんだけど、そのカラクリに気づいたトム・クルーズは、聖書をパラパラめくりながらどこからの引用かを探していた。
キリスト教圏と言えど一般人の知識はその程度なのだ(仏教圏の我々がお経など唱えられないのと同じようなこと)。
本作は正邪を扱った映画ではある。ただしキリスト教に偏った話ではなく、仏教徒でも共有できる程度の広さがあるので、特定宗教の知識は求められていないという捉え方で差し支えないだろう。
朝食を食べて準備万端となったジョングは殺人現場へと向かう。
そこは想像を超えた荒れ具合で、家族を殺したと思われる血まみれのおじさんは、軒先で放心状態。
普通の精神状態で起こした事件ではないことは確かであり、その異常性を一目でわかるレベルで表現した本作のブルータルな描写力には恐れ入った。
しかし我らがジョングだけはまったく動じない。強メンタルと言えば聞こえはいいが、ジョングの場合は無神経なだけだろう。しばし韓国映画特有のコミカルな人情劇が続く。この辺りはポン・ジュノ監督の大傑作『殺人の追憶』(2003年)のようだった。
現場には見慣れないキノコが生えており、人間を狂暴化させる胞子でも発生させているのかしらんという、『処刑集団ザップ』(1970年)や『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(1973年)みたいな話になってくる。
そんな可能性を提示されても感染対策に誰も留意しない辺り、コロナ禍前の映画だなぁという感じがした。
村内では、山に住んでる謎の日本人(國村隼)が怪しいという噂も流れていたが、毒キノコ説で納得したジョングは、そんな噂を特に気にしていなかった。
が、自分が当事者となれば話は変わってくる。
可愛がっていた一人娘がはっきりと異常と分かる行動をとり始めた。
まず高熱で苦しみ、熱が冷めると嫌いな食べ物でもバクバク喰らい、ありえないほどの汚い暴言を吐くようになっていた。この辺りは『エクソシスト』(1973年)のようでしたな。
身内ならば一目で「これは娘ではない」と確信できるレベルだったので、一気に日本人の邪気説に傾くジョング。義母は祈祷師を呼んできた。
祈祷師は太鼓やドラをジャンジャン一心不乱に叩きまくるという何ともインチキ臭い儀式を開始。
もし自分が第三者として立ち会ってたら、笑いをこらえるのに必死だろうなという儀式なんだけど、遠く離れた國村隼は苦しみ始めている。娘も苦しんでいる。どうやらこの祈祷師はマジのやつだったらしい。
なのだけれど、目の前の娘があまりに苦しんでいるものだから、ジョングは祈祷を中止させる。
その後、なんやかんやあって祈祷師は「あの日本人は悪霊を抑え込んでいた側だ。私は間違った側を攻撃してしまった」と言い出す。
中盤にてジョングに「日本人が怪しい」と吹き込んできた若い女こそが悪霊なんじゃないかと。
で、女は女で「祈祷師を信じるな」と言い出す。
一体どうせぇっちゅーねんというジョング。
こうして善悪がコロコロ入れ替わる構成は、昔、日曜洋画劇場で見た『エイリアン・コップ』(1990年)のようだった。
『エイリアン・コップ』ではどっちが正義でどっちが悪なのかのオチがちゃんと付けられていたのだが、本作の場合は曖昧な状態で映画が終わってしまう。
この宙ぶらりんの感覚が、ある観客にとっては中毒性につながるし、別の観客にとっては不満につながるのだろう。私は不満の方が大きかったが。
ただし作品を振り返れば、國村隼が悪霊側であることははっきりとしている。
冒頭、釣りを楽しむ國村隼が釣り針に餌のミミズを仕掛ける描写が、割とじっくりめに披露される。
彼が仕掛ける側であるということは冒頭にて暗示されていたのだ。
正邪の見分けは難しいよということが本作の主張だったのだろうけど、これを描くのに156分は長すぎたというのが正直な感想である。
見ごたえはあったけどね。
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