(1988年 日本)
好敵手だったシャアがついに主人公に躍り出た作品ですが、アースノイドを粛正するというシャアの主張、いまだにララァを引きずり続ける幼稚さ、アムロへの逆恨みなど、すべてがダサく感じられました。シャアは腹の内を読めない男のままでよかったのに、ドラマを具体化したことで魅力が減衰しました。
感想
シャアの思想・行動原理が全部ダメ
ファーストではガンダム最大の敵、Zではガンダム乗り達の側に付いたシャアが、今回はν(ニュー)ガンダムに乗るアムロと対決という、尋常ではない変わり身の激しさを披露します。
これだけ立場をコロコロと変えている時点で、この人の指導者としての器量や先見性にかなりの疑問がわいてくるのですが、今回は思想までが劣化しているので、ちょっと見ていられませんでした。
何度戦争をしてもスペースノイドへの差別的な待遇を改善しようとしない連邦政府に愛想を尽かし、全人類が宇宙に上がるしか平和の道はないというのが今回のシャアの理屈であり、そのために地球に隕石を落として核の冬を到来させ、人が住めない環境にするという目標を掲げています。
いくら紛争を避けるためとは言え、一方の国家集団を壊滅状態にまで追い込むことがその手段というのはあまりに乱暴すぎ。キリスト教徒とイスラム教徒の戦争がなくならないので、全員がキリスト教徒になればいいじゃんというレベルの発想ですね。
また、シャアは『Z』のダカール演説でザビ家やティターンズの人命軽視の戦術を批判しましたが、地球環境を変えるほどのインパクトを与えようとしており、かつ、ラサや香港など地球連邦の主要都市を狙い討ちにする今回のシャアの戦術では、ザビ家やティターンズの比ではない犠牲が見込まれるという矛盾。
ダカール演説と言えば、環境破壊を続けるアースノイドは地球の寄生虫だとして、環境保全のための宇宙移民促進も訴えていましたが、隕石落としはアースノイドの生産活動の比ではないほどの環境破壊をもたらすような気もするし。
そんなわけで、今回のシャアの思想には納得できる部分がまったく無かったので、見ていてとてもしんどかったです。
加えて、その根本にある行動原理も稚拙なものでした。
ファーストで、自分を庇ってガンダムのビームサーベルを喰らって死んだララァ・スンの件をいまだに引きずっており、『Z』では一旦矛を収めたものの、やっぱアムロを許せねぇわという感情で動いています。
ララァやアムロへの執着は異常なもので、ララァを「私の母になってくれたかもしれなかった女性」と言い、またアムロとの決着を納得できるものにするよう、サイコフレームの技術を意図的に漏洩させて敵にνガンダムを作らせるという行動にも出ます。
これに対して部下のギュネイ・カスは、いまだに寝言でもララァ・スンの名をつぶやくシャアをロリコンだの病人だのと言うのですが、私も同じ意見でした。
また、コアテクノロジーを漏洩させてまで自身が乗るサザビーと同格のνガンダムをアムロに作らせるという余裕たっぷりの態度を取りながら、結局負けるという点もダサかったですね。
ついに主演に躍り出たにもかかわらず、今回のシャアは良いとこなしでした。
クェスは昔のアムロ的ポジション
そんなシャアの部下になるニュータイプがクェス・パラヤ。
歴代ガンダムの嫌いなキャラランキングをやると、『0083』のニナ・パープルトン、『Z』のカツ・コバヤシ、『SEED』のフレイ・アルスターらと並んで必ずその名を挙げられる安定の嫌われっぷりで、私も苦手なキャラなのですが、その立ち位置にはかなり興味深いものがあります。
家庭に問題を抱え精神的に不安定な10代だが、ニュータイプ能力を開花させたことからワンオフ機を与えられ、非軍属ながら戦場に駆り出されるというポジションは、ファーストのアムロをトレースしたものと考えられます。
で、ファーストのアムロにとってお兄ちゃん的な存在だったのがブライト・ノアとリュウ・ホセイ、父親代わりがランバ・ラル、憧れの女性像がマチルダ中尉で、割とまともな人達に囲まれていたおかげでアムロの性根は矯正されていったのですが、一方で人に恵まれなかったのがクェスでした。
本人の意に反して戦争に巻き込まれたクェスが最初に興味を持ったのはアムロでしたが、アムロは少年期に出会ったララァ・スンへの思いをいまだに立ち切れないながらも、仕事仲間のチェーン・アギとカジュアルな関係を持っているので、クェスは幻滅します。
一方アギは、アムロの本心は自分にはないことを知りながらも彼への献身的な姿勢を崩しません。
大人の恋愛を知らないクェスからすれば、「アムロさんはただただ気色悪いけど、それ以上にアギさんは無理無理。生理的に受け付けない」という反応になるのも致し方ないかなと。
後の場面でアムロが「あの子の父親代わりはできない」と言い放ったことからも明らかなように、ラー・カイラムにはクェスと真剣に向き合える大人、行動モデルになれる大人が居なかったことから、クェスはシャアの側へと移って行きます。
シャアも基本的にはアムロと同じ状態で、本心ではララァ・スンを思いながらも、ナナイ・ミゲルとの関係を持っています。そしてナナイはシャアに対して献身的。
ただし違うのがシャアはクェスを利用するつもりでいることで、表面的には「君が一番だ」という態度を取り、優しい言葉もかけてくれます。
どうやらクェスがナナイを嫌っているようだと見れば、「あいつには私から厳しく言っておく」とも言います。実際にそんなご指導などしないのですが。
すると、カリスマ的な指導者が私に気を遣ってくれているということでクェスは舞い上がり、少しでもシャアのお力になりたいとしてニュータイプ能力をメキメキと伸ばしていきます。
すかさずシャアはクェスを巨大モビルアーマー α・アジールに搭乗させるのですが、これが人の形をしていない明らかにヤバそうなマシーンで、シャアが彼女を高性能な生体パーツ程度にしか考えていないということが丸分かりになります。
最終的にクェスはα・アジールで戦死。若者に対する責任を放棄する大人か、利用するつもりの大人しか周囲に居なかった可哀そうなキャラクターだったと言えます。
オカルト路線はやりすぎ
で、いろいろあってシャアの作戦は成功し、このままではアクシズが地球に落下ということになるのですが、ここでアムロが驚異のパフォーマンスに出ます。
たかが石ころ一つ、ガンダムで押し出してやる!νガンダムは伊達じゃない!!
シリーズ屈指の名セリフと共に、アムロの操るνガンダムがアクシズの落下コースに立ちふさがり、ニュータイプ能力を全開にして機体の何万倍もの質量のあるアクシズを押し返します。
νガンダムのサイコフレームがアムロのニュータイプ能力を増幅し、隕石を弾き飛ばすほどの威力を持ったということらしいのですが、人間の精神力が大規模な物理現象を引き起こすというオカルト設定には、かなりしんどいものがありました。
私にとってのニュータイプ能力とは、ファーストで描かれた通りの能力者同士の感応と、現象に対する直観の鋭さ程度で丁度良かったのですが。
なお、宇宙を舞台にしたSFとオカルト能力という組み合わせは一般的なもので、『2001年宇宙の旅』(1968年)なんてまさにそういう話でした。
ただしキューブリックが優れていたのが、誕生したスターチャイルドを映すところで終わったということです。
実はあの後、スターチャイルドが超越的な力を発揮して地球軌道上にある軍事衛星をすべて破壊するという場面があるのですが、それをやってしまうと物語のリアリティラインが狂ってしまうと感じたのか、映画版では物理的な能力を見せないという辺りのさじ加減が抜群でした。
一方で本作にはそうした感覚がなく、念じれば何でも起こるという描写にしたことで、物語全体のバランスが壊れているように感じました。
コメント
現状、アムロとシャアが出た最後の作品で二人の勝負の決着でもあるので悪くは言えない雰囲気みたいなのが私含めたガノタ界隈ではありますが私も管理人さんのように微妙な評価です。
UCやNTもそうなんですけどニュータイプやサイコパワーで戦いに直接介入するような超常現象が起きるとリアリティ・ラインが後退して一気に興醒めしてしまうんですよね。リアルロボットものとして売り出してきただけに。
それに加えてクェスとハサウェイが最後まで好きになれませんでした。ニュータイプの不安定な精神状態や未熟さを表現したかったのかもしれませんが、そうした存在はカミーユやカツで既に見ています。ごちゃごちゃ言いながら戦場を搔き乱す二人の存在は非常に鬱陶しかったです。
そして、これは完全に個人的な意見なんですが北爪氏のキャラデザにもあまり魅力を感じませんでした。ZZのプルや今作のナナイのように同氏オリジナルの美形キャラはいいのですがシャアは安彦氏のとは異なって何か美形すぎる印象を覚えました。
ファーストにおけるニュータイプ力って、直感の鋭さとか感応レベルだったと思うんですけど、せいぜいそこ止まりにすべきでしたね。
大規模な物理現象までを引き起こし始めると、ニュータイプが念じれば何でもありになってしまうので