ミュージック・ボックス_つまらない勧善懲悪もの【5点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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社会派

(1989年 アメリカ)
法廷闘争のパートには国際論争をデフォルメしたような面白さがあったのですが、「生身の人間が本当にそう反応するのだろうか」と疑念を抱かせるような不自然な点が少なからずあったため、ドラマとしての完成度は高くありません。勧善懲悪に振り切ったオチの付け方は最悪。題材を矮小化しています。

作品解説

社会派映画の鬼 コスタ=ガヴラス監督作品

本作の監督はギリシャ出身のコスタ=ガヴラス。

母国ギリシャで実際に起こった政治家暗殺事件をモチーフにした『Z』(1969年)でアカデミー外国語映画賞とカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞し、続けざまに発表した『告白』(1970年)、『戒厳令』(1972年)でも高評価を獲得。これらはコスタ=ガヴラスの三部作と呼ばれています。

その後、ハリウッドに招かれて製作した『ミッシング』(1982年)でアカデミー脚色賞とカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞し、社会派監督として比類なき地位を確立しました。

脚本は『氷の微笑』のジョー・エスターハス

脚本を書いたのはハンガリー出身でクリーブランド育ちのジョー・エスターハス。

世間一般では『氷の微笑』(1992年)、『硝子の塔』(1993年)、『ショーガール』(1995年)などのエロ脚本家として認識されており、またゴールデン・ラズベリー賞の常連という不名誉も受けましたが、キャリア初期にはノーマン・ジュイソン監督の『フィスト』(1978年)や、本作と同じくコスタ=ガヴラス監督の『背信の日々』(1988年)など社会派作品の脚本を書いていました。

彼の父イシュトヴァンが母国ハンガリーから戦争犯罪人として告発を受けるという映画と全く同じことがエスターハスの身にも起こったのですが、本作のリリース後のことなので作品内容との関係はありません。

伝説のスタジオ カロルコ製作

本作を製作したのはなんとカロルコ。

第一回作品『ランボー』(1982年)以来娯楽の道を突き進み、『トータル・リコール』(1990年)『ターミネーター』(1991年)の大ヒットで時代の寵児となり、『ショーガール』(1995年)と『カットスロート・アイランド』(1995年)の大失敗で華々しく散った伝説の独立系スタジオです。

そんなカロルコが社会派作品を作っていたことには意外な感じもしますが、実は彼らはアクション大作以外にも様々な作品を手掛けていました。ボブ・ラフェルソン監督の『愛と野望のナイル』(1990年)、リチャード・アッテンボロー監督の『チャーリー』(1993年)などがそれであり、本作もその系譜の作品だと言えます。

ただし本作においては「製作 マリオ・カサール」といういつものクレジットが踊ることはなく、プロデューサーを務めたのは『ロッキー』(1976年)のアーウィン・ウィンクラーでしたが。

【人物評】カロルコとマリオ・カサールの功績を振り返る

ベルリン国際映画祭金熊賞受賞

リリースされるや否や本作は高く評価され、ベルリン国際映画祭で最高賞に当たる金熊賞を受賞しました。

また主演のジェシカ・ラングの演技も評価され、アカデミー主演女優賞とゴールデングローブ主演女優賞にノミネートされました(いずれも受賞はならず)。

なお、当初本作に主演する予定だったのはジェーン・フォンダで、エスターハスはフォンダを想定して脚本を書き、プロデューサーのアーウィン・ウィンクラーもフォンダを推していたのですが、コスタ=ガヴラスがフォンダでは設定年齢と合わないと判断してジェシカ・ラングがキャスティングされました。

この交代劇に際して、フォンダには125万ドルの違約金が支払われました。

感想

国際論争に似た裁判の経過が面白い

主人公アン(ジェシカ・ラング)はハンガリー移民2世で、シカゴの優秀な弁護士です。

ある日、彼女の父マイク(アーミン・ミューラー=スタール)に第二次世界大戦時の戦犯ではないかとの疑惑がかけられ、ハンガリー政府から身柄の引き渡しを求められた合衆国政府はマイクの市民権停止と、ハンガリーへの強制送還手続きを開始しようとします。

当然のことながらマイクは潔白を主張し、娘アンに弁護を依頼して国との法廷闘争へと発展。これがざっくりとしたあらすじです。

第二次世界大戦中にハンガリーで人を殺しまくったミシュカという兵士がマイクと同一人物なのではないかという点がこの裁判の争点なのですが、これに対する検察側の作戦と弁護側の作戦がまったく噛み合っていない点に私は興味を持ちました。

製作者がどれほど意図していたのかは分からないのですが、この噛み合わなさ加減が現実の国際論争によく似ているのです。

検察側は証人として当時の生存者を次々と法廷に呼び、ミシュカという人物がいかに酷いことをしたのかを語らせます。「こんなに酷いことをした奴を許せるんですか!」という感じで。

一般論としてそうした生存者の証言は貴重なのですが、殊この裁判においてはほとんど意味がない情報です。なぜなら、マイクがミシュカと同一人物であるかどうかが争点であって、必要なのは両者を結びつける証拠のみだからです。

ミシュカがどんなに悪いことをした人物であるかという情報は「マイク=ミシュカ」という結論が出た後で必要になるものなのに、検察は人物特定の段階からひたすらに悲惨な話を聞かせたがる。この作戦って『それでもボクはやってない』(2007年)でも描かれた結構問題のある手法なんですよね。

  • 憐れな被害者が勇気を振り絞って証言をしている
  • この被害者が被告人を加害者だと認識している
  • 被告人に厳罰を!

という三段論法であり、被害者がどんな目に遭ったのかという被害の事実の検証と、それをやったのは一体誰なのかという加害の事実の検証は本来別個に進めるべきであるにもかかわらず、被害の事実をセンセーショナルに煽り立てることで反論しづらい空気に持って行き、加害の事実の検証をおざなりにしてしまうという。

そしてこれに対する弁護側の作戦とは、陰謀論をぶち上げて証言の信ぴょう性を崩すというものでした。

本作の舞台となる1989年にはソ連がまだ存在しており、東西冷戦構造もありました。

そしてハンガリーは東側陣営であり、西側に移民し反共的な運動にも積極的に参加しているマイクを裏切り者として処刑したがっている。そのために戦犯であるとの言いがかりをつけてアメリカ政府に身柄引き渡しを求めているということが弁護側が作り上げたストーリーです。

証言者達はハンガリー政府の意図の元に送り込まれたのではないか、証言者同士の共謀や口裏合わせがあるのではないかとして、証言の信ぴょう性を崩そうとします。

ただし陰謀の実在性を証明できていないので、弁護側のツッコミにも決定力がありません。証言者達の話には臨場感や生々しさがあって、彼らが嘘を言っているようにも聞こえないし。

そんなわけで、「こんなに可哀そうな被害者がいるんですよ!」と被害の事実を全面に押し出す検察側と、ハンガリー政府の陰謀論を唱える弁護側の論争はなかなか噛み合いません。

そして、この手の噛み合わない議論って国際論争でもよくありますよね。「こんなに悲惨なことがあった!」と声高に叫ぶものの「それって本当に●●国の仕業だったんですか?」という疑念に答えていないという。

例えば湾岸戦争で油まみれになった水鳥の映像。負けそうになったイラク軍がヤケクソになって原油をペルシャ湾に流したと言って報道されて、国際社会は「フセインけしからん!」といきり立ったのですが、実はアメリカ軍の空爆でああなったということが後年明らかになっています。

被害の事実に目を奪われ過ぎて加害の事実の検証を疎かにすると、こういう事実誤認が起こるわけです。

一方「××国が●●国を貶めたくて言っていることだ!」という確認のしようのない陰謀論を持ち出して反論しても、これはこれで議論を迷走させる原因となります。

主人公の心境がよく分からない

そしてこの裁判の構図はかなり異例のもので、通常ならば戦犯の罪を暴く側の視点で描くであろう物語を、「私の父は戦犯ではない」として被害者証言を否定する側を主人公にしています。

しかし主人公がどういう心境で父の弁護をしているのかがよく整理されていないのでドラマの軸が定まらないものとなっており、その結果、刺激的な試みがあまり生きてきません。

すなわち、アンは父の無罪を心から確信して弁護しているのか、何かあったのかもしれないと疑う気持ちは僅かながらも存在するが、親子の情愛と弁護士としての本能から黒を白に変えようとしているのかが見えてこないのです。

最初は父の話を信じていたが、検察側が出してくる情報から徐々に父への信頼が揺らぎ始めたということなのかもしれませんが、いずれにせよアンの心境をうまく表現できていません。

そう簡単に割り切れるものか

その結果、クライマックスもうまく着地できていませんでした。

熱心な弁護と、ピンチの度に不思議ともたらされる新証拠や新証言が功を奏してアンはマイクの無罪を勝ち取るのですが、その後、些細な糸口から「マイク=ミシュカ」であることの動かぬ証拠を入手します。

これを見たアンはマイクとの縁を切り、新証拠を検察に送り付けて父にケジメをつけさせるのですが、その割り切り方が唐突な気がしました。

アンにとってマイクは男手一つで兄と自分を育ててくれた立派な父親です。それ以前の過去がどうであれ、アメリカに渡ってきて40年間は善人として生きてきたことは事実。その40年を傍で見てきた身内が、こうも簡単に親子の情愛を断ち切れるものでしょうか。

脚本家のジョー・エスターハス自身が経験したように、戦犯であることの動かぬ証拠を突き付けられて、一家が逃れようのない状況に置かれれば親子の縁を切るという結論に至るのでしょうが、本件は一旦無罪を勝ち取っており選択の自由があるわけです。

もし自分が黙っていれば父は模範的なアメリカ市民のままでいられる。家族は「戦犯の子孫」という汚名を着ずに済む。結果から振り返ると戦犯を弁護してしまったという自分自身のバツの悪い状況も隠すことができる。

アンの立場ならば、そうした打算も当然に働くのではないでしょうか。

しかし本作は「ならぬものはならぬのです!」と言わんばかりにアンが道徳的な行動をとるので、そこに嘘くささを感じてしまいました。ここで葛藤してこそ生々しいドラマになるし、葛藤の中で正しい道を選んでこそ真に道徳的な話になるのではないでしょうか。

また、父を断罪すると決めた後のアンの行動も不合理なんですよね。親子関係があるとは言え、本件においてマイクとアンは弁護人と依頼人という間柄にあります。その弁護人が、弁護活動の中で偶然手に入れた証拠を、依頼人に黙って開示するというのは職業倫理に反しているのではないでしょうか。

すなわち守秘義務、誠実義務、最善義務に違反の疑いがあります。いくら正義のためとは言え、専門家としてやっちゃいけないやつではないかと。

あと一事不再理の原則から考えて、無罪判決が出ている本件で検察がマイクを再起訴することはできるのでしょうか?イリノイ州の法体系に詳しくないので、はっきりとは分かりませんが。

悪の描き方が浅い

また動かぬ証拠が出てきた瞬間にマイクが本性を表すという、サスペンス映画みたいな演出も余計でしたね。ジョー・エスターハスの癖が出てしまったのだろうと思うのですが、あれをやってしまうと逆に浅くなってしまうのです。

  • 戦時下で虐殺をした悪人が戦後は猫を被っていた
  • 平時には善良な市民でも、戦争という異常事態では虐殺者に変わる場合もある

このどちらが怖いですか?私は断然後者です。しかし本作は前者のアプローチをとっているので、私としては微妙でした。

なぜなら、前者のアプローチだと「戦時に悪いことをする奴はそもそも悪い奴」という観客との間にはっきりとした仕切りが入ってしまうため、社会啓蒙的な意義が薄れてしまうのです。

後者のアプローチを取ればこそ、条件が揃えば自分もミシュカのようになってしまうかもしれないと観客に考える機会を与えるのではないでしょうか。

そして本作における悪の描き方の浅さからは、戦争犯罪をドイツや日本のものだとばかり思っていて、自分達は裁く側だと高を括っていたアメリカならではの姿勢も感じました。

戦争は倫理的に正しい側が勝つのではなく、勝った側は戦時中の罪を追及されずに済んでいるだけです。しかしアメリカさんというのは呑気なところがあって、自分達は戦争犯罪を犯していないと思っているわけです。

だからこういう浅い描写に繋がるんだろうなと。

コスタ=ガヴラスにアメリカ映画は合わない

こうして見ると、アメリカ社会の雰囲気がコスタ=ガヴラス監督の色に合っていないような気がしてきました。

フランス映画界にいた頃のコスタ=ガヴラスの映画は道徳上どうあるべきかということを超越し、権力とはどれほど冷酷なものであるということを鋭い切れ味で描くものばかりでした。

『戒厳令』(1972年)なんて、誘拐されて殺されたイヴ・モンタンが可哀そうと思わせておいて、実はとんでもなく阿漕なことをやっていたということが暴かれていくのですが、化けの皮を剝がされた途端に悪人面し始めるような低レベルの演出は施されていませんでした。

終始スマートで礼儀も弁えた男なのだが、それでも権力からある役割を与えられた結果として悪事の首謀者になっていたという深みのあるキャラクターだったのに、17年後に製作された本作ではむしろ人物描写が退化しています。

こういうところで、本作を「コスタ=ガヴラスらしくないなぁ」と思ってしまうわけです。

アメリカ的な白黒の付け方をした結果、善悪半々でバランスを取りながら生きている人間の危うさみたいなものがなくなっており、ドラマ作品としてはあまり面白くありませんでした。

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