(2019年 スペイン)
資本主義社会の歪みをカリカチュアした物語なのですが、風刺的な面だけではなく、密室劇としてもグロテスクなホラーとしても一級品。短い上映時間ということもあって、かなり密度の高い作品に仕上がっています。
感想
資本主義社会の歪み
ゴレン(イバン・マサゲ)が目を覚ますと、真ん中に穴が開いた建物の中にいました。その穴を行き来するエレベーターには食事が乗せられており、上の階層から順番に食事を食べていくという仕組みとなっています。
食事が上から下に降りていき、下の階層の者は上の階層の者が食い散らかした後のものを口にするという構造には、資本主義社会における格差という構図がかなり明確に表現されています。
そして各階層は二人一組になっており、ゴレンはトリマカシという初老の男と相部屋となります。
このトリマカシが施設のベテランのようで、ゴレンにいろいろと教えてくれるのですが、ただし「上下の階層の人たちに働きかけ、みんなで綺麗に食べて一番下にまで食事が残るようにしませんか」というゴレンのアイデアに対してはキレ気味に反論します。
「上も下も必死なんだから誰も他人のことなんて考えてない。だから俺らも自分のことだけを考えて生きるんだ」というのがトリマカシの言い分であり、そんなトリマカシからすれば、善意のリレーを信じるゴレンはまだまだここの厳しさを分かっていない甘ちゃんということなのでしょう。
そして、みんな必死なので他の階層のことを思いやっていないという点にも、やはり資本主義社会の歪みが象徴されています。
問題は分配だけではなかった
次に同室となる元運営側の女性イモギリより、この建物は200階建てであり、食事は400人分作られている、すなわち全員が分量を守っていれば一番下の階層にまで食事は行き渡るはずであるとの情報がもたらされます。
社会の資源は十分にあるのに、欲張っている人間のために最下層が困窮するという資本主義社会の歪みがここでも指摘されるというわけです。
しかし次のシャッフルにて、ゴレンとイモギリは202階層に配置されます。200階よりも下がある、すなわち分配をどれだけ正確に行っても食事にありつけない人間が出てきてしまうということです。
202階層の存在を知ったイモギリは首を吊るのですが、これは不完全なシステムに被験者を送り込んでいた自分自身の罪を悔いての自殺なのでしょう。
また、アジア系の女性ミハルが子供を探しているという点からも、この世界の不完全性は示されます。イモギリは「この建物に子供なんているはずがない」と言うのですが、ミハルの子は実在しています。
このように、運営が認識していない事象が存在している。
後半は資本主義というテーマを離れて神と人という構図へと移っていくのですが、運営側が神だとすると、神ですら意図していないことがこの世界では起きているということになります。
それは人では解決しようがないのだから、ゴレンはエレベーターに乗ってすべての階層の状態を確認し、そこで発見した歪みを運営(=神)に伝えようとします。これが終盤の展開。
そんなわけで、社会風刺的な切り口から入りつつも、次第に宗教色を帯びてくるという多面的な構成が面白くもあり、難しくもありました。
キリスト教文化に明るくない私としては、宗教色全開になる後半にはちょっと辛いものがありましたね。
狂人トリマカシが最高すぎる
こんなお話の中で、ひときわ精彩を放っていたのがゴレンの最初の同居人トリマカシです。
一言でいうと、彼は狂人。
自らの意思でここにやってきたゴレンとは違い、トリマカシは精神病院に入るかここに入るかを選択させられ、仕方なくここを選んだとのこと。
なぜそんな決断を迫られたのかというと、過去に人を殺したためなのですが、その殺害理由がしょうもなくて、通販番組の内容に怒ったトリマカシが窓の外にテレビを放り投げると、それがたまたま人に当たったというものでした。
そんなわけなのでトリマカシは人を殺したことをまったく反省しておらず、いまだに通販番組の内容に怒り続けています。
このトリマカシとゴレンのやり取りには緊張感が漂っており、常人とは異なる感覚を持つトリマカシの地雷が一体どこにあるのか分からない、キレたら平気で人を殺すトリマカシがいつ暴れだすか分からないのだから溜りません。
『ミザリー』(1990年)のキャシー・ベイツをより気持ち悪くしたようなキャラクターで、わたしはとても気に入りました。
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