博士と狂人_一番マッドなのは精神科医【7点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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中世・近代
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(2019年 アメリカ)
オックスフォード英語辞典という英知の結晶の編纂作業に、精神科に収容されていた殺人犯が関わっていたというウソのような実話を描いた歴史劇。題材、脚本、演出、演技のいずれもがハイレベルで、見終わった後、素直に良い映画だと言える作品だった。

感想

狂気の書物「オックスフォード英語辞典」

本作は世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典」(以下OED)の誕生秘話なのであるが、調べてみると、このOEDというのは狂気としか言いようのない書物だった。

英語の完全な網羅を目指して1857年に編纂作業が始まり、初版が出版されたのが1928年。実に71年をかけて製作された大著であり、収録語は驚異の60万語。

現代の用法だけではなく英語の歴史的発展も辿っており、単語毎に意味や用法の推移や、各時代の英語文献からの引用を掲載し、すべての語義や用法の包括的な記述が行われている。まさに狂気。

こんな異常なものを作るためには天才と狂人が必要だったというわけで、それを成し遂げた男たちの物語が本編となる。

Wikipediaのような仕組みを考案した天才学者

天才と狂人のうち、天才側を担うのが、メル・ギブソン扮するジェームズ・マレー博士。

彼は仕立て屋の息子で、14歳で初等教育を卒業後にはすぐに家業の道に入ったのだが、語学に対する興味が異常なレベルで、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ギリシャ語を独学で身につけた。

控えめに言っても大天才であり、そのうち言語学の世界で著名な人物となる。

そんな折、編纂開始から22年かけても、ほんのさわりしかできていないOEDの編集作業に名乗りを上げる。

スコットランド人だわ、学校を出ていないわで、オックスフォードのお高く留まった連中からは「こんな奴にできるかよ」という態度を取られるものの、圧倒的な知識量を示すことでこいつらを黙らせ、1879年に編集主幹に就任。

ただし博識なマレー博士をもってしても、すべての英単語の歴史的推移を記録するという作業には全く終わりが見えず、途方に暮れたマレーはボランティア方式なるものを思いつく。

これが革新的なもので、彼の言語学スキルよりもこちらの方が凄いと言えるものなのだが、要は学者だけの頭脳では間に合わないので、企画趣旨を広く周知させた上で、一般人からも辞書の内容を募集するというものだった。

大勢の素人が書き込んで一つの巨大なデータベースを作り上げるという方式はWikipediaを大幅に先取りしたもので、19世紀末にこの仕組みを思いつき、運用にまで漕ぎつけたマレーの天才ぶりが凄い。

また辞書の編纂のような高度な作業は学者じゃないと無理という思い込みを打破し、広く一般から情報を吸い上げるという柔軟な姿勢は、権威主義と戦い続けたマレーならではの発想だとも言える。

このマレーの「プロジェクトX」的な話だけでも、驚きと感動があった。

編纂のモンスターエンジンとなった狂人

そんな編纂作業に加わる素人の中でも突出した働きをするのが、ショーン・ペン扮するウィリアム・マイナー。彼は精神科施設に収容中の殺人犯である。

マイナーはアメリカの名家出身で、イェール大医学部卒のインテリだった。しかし軍医として出征した南北戦争で精神を病み、療養を兼ねてロンドンに移り住んでいた。

そんなマイナーだが、ロンドンでもPTSDを発症。第一作のランボーのように戦場の光景がフラッシュバックして、全く無関係な人を撃ち殺してしまう。

それで精神科施設に収容されていたのだが、施設内で事故が起こった際に軍医時代のスキルをフル活用して看守の命を救ったことから院長先生からの信頼と施設内での尊敬を勝ち取り、囚人服ではない普通の身なりをして、好きなだけ本を読めるという特別待遇を手にしていた。

そこに挟まっていたチラシからOED編纂作業のことを知り、「何これ最高!面白れぇ!」という感じで、文字通り狂ったようにこの作業に没頭するのである。

たまにAmazonや食べログなどのレビューページを見ていると、金ももらえないのによくここまで事細かに書いてくれるものだと感心する投稿に当たるが、マイナーの情熱はその比ではなく、膨大な量のレポートをオックスフォードに送り付ける。

その猛烈な仕事ぶりは大天才マレーの目からしても驚異を感じるものなのだが、史実によると、かなり長い間、マレーはこの投稿者の正体を知らなかったそうだ。

時間が有り余っているインテリ医師だと思っていたらしい。投稿者の住所は精神病院だったのだが、そこに収容されている患者であるとはつゆとも知らず、そこの医者だとばかり思っていたのである。

感謝を述べたくて施設を訪れた際に、ようやくマレーは投稿者の正体を知る。

オックスフォードのお堅い連中ならば「殺人犯が編纂に関わっていたとなれば辞典の品位を疑われる!情報の信頼性も怪しくなる!」と大騒ぎしそうな場面であるが、マレーはマイナーが行ってきた仕事の正確さを理解しており、その正体が辞典の内容に何らの悪影響を与えるものではないとの態度をとる。

こうした落ち着いた対応こそ、マレーの良い部分なのである。マレーの底抜けの善良さには心打たれるものがあった。

そしてマレーとマイナーは穏やかな親交を育み、そのことがマイナーの症状にも良い影響を与える。

社会から狂人と見做された男がOED編纂にこれ以上ないほどの貢献をし、その作業が精神面での問題の解決にも繋がっていくという好循環。実に気持ちの良いドラマで、このパートはとても楽しめた。

マッド精神科医登場

なのだが、マイナーの問題が改善しすぎたことが、新たな問題を生み出す。

彼の精神状態が落ち着けば落ち着くほど、全く無関係な人を殺してしまったという罪の意識に耐えられなくなっていくのである。

また、マイナーは被害者遺族への補償も行っていた。

当初は殺人犯からの施しを断っていた遺族も、次第にその善意を受け取り、仕方のない事故だったとの認識を示し始めるのだが、遺族との距離が縮まったことも、賢者モードに入ったマイナーの罪悪感に火を点ける。

故人に対してどれだけ申し訳ないことをしているんだ、自分はと。

マイナーは当初とは違う理由でおかしくなっていくのだが、突如としてそこで存在感を示し始めるのが、精神科施設の院長である。

院長は当時の精神医療の持てる知識・技術を総動員して、マイナーに対する拷問という荒療治を思いつく。

マイナーはマイナーで、自分の抱える罪悪感を払しょくするために拷問を受けたいという思いを持つ。

で、院長からマイナーへの拷問が始まるわけだが、当然のことながらその状況で辞書の編纂作業などできるはずもなく、マイナーからの投稿はパタッとやむ。

おかしいと思ったマレーは現場に様子を見に行き、正直な感想を言う。

「この治療で、むしろ悪くなっているように見えるんですが…」

しかし、これは専門家に対して言ってはならない一言だった。

医者のみならず、弁護士、税理士などその道の専門家達は、素人から「これって意味あるんですか?」「逆効果じゃないですか?」と言われることを死ぬほど嫌う。

これを言われた瞬間に「この学問を勉強したことのないあなたには分からないでしょうが、この方法こそ最善なんです!」という意固地モードに突入し、手が付けられなくなることも多い。

で、院長もそうなる。

「俺の治療に文句つけやがって!」とキレた院長は結果を出そうと躍起になり、マイナーを隔離して余計に拷問に精を出すのである。

まさにマッド医師なのだが、前半部分では良識的な人だった院長がここまで変貌したことも衝撃的であり、誤ったことを信じた人間とはここまで醜悪になるものかと、こちらにもまた人間性に対する深い洞察を感じた。

で、このままでは友人の人格を破壊されると思ったマレーは、当時内務大臣だったウィンストン・チャーチルに掛け合って、マイナーを釈放させる。

突如登場する歴史上の偉人。この部分で歴史劇としての重厚さも加わっており、実に多面的でよく出来た映画だと感じた。

やはりメル・ギブソンの映画人としての実力には卓越したものがあり、プライベートでの行いを理由にこの才能を埋没させておくのは、マイナーの正体を知った瞬間にその頭脳の活用をやめようとした当時の英国社会並みに不合理である。

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