(2022年 アメリカ)
アナ・デ・アルマスのヌードが見られる以外には、特に価値のない映画。エロティックサスペンスの元巨匠エイドリアン・ラインの演出力低下が著しく、何を感じ取ればいいのか分からないまま何となく始まり、終わっていった。
作品解説
『太陽がいっぱい』『キャロル』のパトリシア・ハイスミス原作
本作の原作はパトリシア・ハイスミスの小説『水の墓碑銘』(1957年)。
ハイスミスはサスペンスやミステリー分野で著名な小説家で、映画界との関わり合いも深い。
長編小説第一作『見知らぬ乗客』(1950年)がアルフレッド・ヒッチコック監督により映画化されたことを皮切りに、『太陽がいっぱい』(1955年)は1960年と1999年に映画化され、その続編小説『アメリカの友人』(1974年)も1977年と2002年に映画化された。
その他、『ギリシャに消えた嘘』(2014年)や『キャロル』(2015年)も彼女の著作の映画化である。
彼女はカタツムリの飼育という変わった趣味を持っていたのだが、そのことは本作の主人公にも反映されている。
『ジェイコブス・ラダー』のエイドリアン・ラインが監督
本作を監督したのは80年代に一世を風靡したエイドリアン・ライン。
ダイアン・レインがアカデミー主演女優賞にノミネートされた『運命の女』(2002年)以来、新作を発表しておらず、引退して余生を楽しんでおられるものとばかり思っていたが、本作で電撃復帰を果たした。
その直近作『運命の女』は不倫映画だったが、その他にも『ナインハーフ』(1986年)、『危険な情事』(1987年)、『幸福の条件』(1993年)、『ロリータ』(1997年)など、そのフィルモグラフィには性を扱った作品がずらっと並んでいて、実に壮観である。
しかし、個人的にその代表作だと思っているのはサイコスリラー『ジェイコブス・ラダー』(1990年)だったりする。
現実とも妄想ともつかないフワフワとした感覚、圧巻の画力による悪夢の具体化、ネタ明かしのタイミングの絶妙さなど、何度見ても欠点が見当たらないほどの素晴らしい作品だった。
そんな輝かしい経歴を持ったベテラン監督の復帰作であり、しかも不倫を核に据えたミステリーとあってはその得意中の得意分野と言えるのであるが、さすがに20年も休んでいると腕前も衰えるものであり、全盛期ほどのキレはなかった。
何かとお騒がせのベン・アフレックが主演
主人公ヴィックを演じるのはベン・アフレック。
『アルマゲドン』(1998年)に出演して以降の5年ほどは押しも押されぬハリウッドのトップスターだったが、高い期待値の割に突出した成功作を出せなかった上に、当時の恋人ジェニファー・ロペスとのイタイ交際ぶりもネガティブに働き、俳優としての人気はひと段落した。
しかし2007年に『ゴーン・ベイビー・ゴーン』で監督デビューするや、その手腕に注目が集まり、続くクライムアクション『ザ・タウン』(2010年)では全米No.1ヒットを獲得。
「そういえば『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー脚本賞を獲ったことあるよな」ということを、ここに来てみんなが思い出した。
こうして映画製作者としてノリに乗ったアフレックは、監督第3作目『アルゴ』(2012年)でついにアカデミー作品賞を受賞。映画人として一流と認められたのである。
またプライベートでは2005年に女優のジェニファー・ガーナーと結婚して3人の子宝にも恵まれ、安定軌道上に乗ったかと思われた。
しかし2015年に離婚を発表し、再度雲行きが怪しくなる。アフレックのアルコール、ギャンブル、浮気が原因だったらしいが、男の三大欲求すべてに手を出すという辺りが凄いと思う。
その後、出会い系アプリで「僕はベン・アフレックだよ」とDMを送ったところ、相手女性にそれを晒されて「必死か」と物笑いの種にされたり、過去の共演者からセクハラ告発を受けたりと、何かと世間をざわつかせることが多い。
この通り、毀誉褒貶の激しい人物であり、本来は有能なんだがどこか間抜けで隙があるという辺りが、アフレックのアフレックたる所以である。
ベンとアナ・デ・アルマスの馴れ初め映画
そんなアフレックだが、2020年に入った頃からアナ・デ・アルマスと交際を始め、ありえないほどピッタリとくっついた二人が犬を散歩する様子などがパパラッチされていた。
離婚したとはいえ3人の子の父親であるアフレックが、16歳も年下のアルマスと人目も憚らずデレデレとしている様には全世界が眉をひそめたが、その二人の馴れ初めが本作での共演だった。
本来は2020年11月に劇場公開される予定だったのだが、フォックスの買収騒動や新型コロナウィルスの世界的パンデミック等で延び延びになり、そのうちにアフレックとアルマスも別れてしまった。
破局後のアフレックは、自宅にあったと思われるアルマスの等身大ボードをゴミの日に出すなど、分かりやすすぎる行動で笑いを誘いもした。
そうして劇場公開のタイミングを失った本作は、2022年3月18日にしれっとAmazonプライムで公開された。
共演者同士の交際が終わり、アフレックは元カノ ジェニファー・ロペスとよりを戻した。紆余曲折ありつつも同世代との交際に辿り着いたことで、世間からの祝福も得た。アルマスとの交際は黒歴史と化したのである。
完全に賞味期限が切れたとしか思えないタイミングでの公開には、関係者一同への同情の念を禁じ得ない。
感想
ゴシップ先行映画に名作なし
上述の通り、本作は主演2人の交際に発展した作品であるが、現場でのゴシップ先行の作品には、たいていロクなものがない。
古くはエリザベス・テイラーとリチャード・バートンの不倫が取り沙汰された『クレオパトラ』(1963年)、既婚者メグ・ライアンに豪州の暴れん坊ラッセル・クロウが手を出した『プルーフ・オブ・ライフ』(2000年)、ブラピとアンジーの馴れ初め映画である『Mr.&Mrs スミス』(2005年)などがその例。
過去にベン・アフレックがジェニファー・ロペスと共演して大コケした『ジーリ』(2003年)もそうだった。
共演者同士の色恋に発展する余裕があるほどのユルイ現場からは、凄いものは何も出てこないということなのだろう。
他方でファンの期待を上回るほどの傑作となった『マッドマックス怒りのデスロード』(2015年)などは、主演のトム・ハーディとシャーリーズ・セロンが口も利かないほどのピリついた現場だった。やはり映画の撮影には緊張感というものが大事なのである。
またゴシップのイメージが観客側に付いてしまっているために、キャラクターやストーリーに集中できないという問題もある。
本作もまさにそのパターンで、自分とは不釣り合いなほどの美人妻を得た夫の心痛がテーマなのであるが、現実世界でのアフレックとアルマスのバカップルぶりを見てしまうと、そのストーリーには容易に入り込めなくなってしまう。
夫婦の愛憎劇が不発
そんなキャスト達のイメージに加えて、脚本もあまり整理されていないので、主人公夫婦の愛憎劇に特段感じるものがなかった。
妻は不貞行為を繰り返すのだが、ただの男好きだからなのか、夫へのあてつけでやっているのか、他に何か不満なことがあって、異性との性的関係でそれを解消しているのかが、イマイチ読めない。
子供や夫への当たり方を見るに今の生活には不満がありそうだし、不貞行為を咎めない夫に苛ついているらしい言動もある。
だから彼女なりに何か思うところはあるのだろうが、核心を突く描写がどこにもない。
そのうち、ストーリー上の関心は彼女の内面から夫の殺人疑惑に移っていくので、結局、彼女が何を考えていたのかが判然としないのである。
そして内面描写の不備は夫側にもある。
パートナーの不貞行為には普通怒る。しかも自分や友人の目の前で隠す気もなく大っぴらにやられれば、事実関係を争う必要もないので、いくらでも強く出られるはずである。
しかし、主人公は苦虫を噛み潰したような顔でその光景を眺めているだけである。
なぜ彼は怒らないのだろうか。
そのシンプルな問いに対する回答が用意されていないので、ドラマに対する共感が生まれない。
そして調子に乗った妻は、浮気相手を家にあげ、夫と共に食卓を囲ませたりもする。
さすがにこれは不貞以上の侮辱行為であり、完全にこちらは舐められているわけであるが、これまた夫は妻に対しても浮気相手に対してもキレない。
まぁこれについては、そんな場にノコノコ出てくる浮気相手の神経が一番理解できないが。
仮に私が不倫していたとして、不倫相手から家に遊びに来ないかと言われ、行ったら行ったでその夫の前でのイチャイチャを迫られたら、ダッシュでその場を立ち去るだろう。
それほどまでに、この愛憎劇の登場人物達の行動は凡人の理解を越えているのである。
かといって、ありえない連中のありえない日常を傍観する映画という作りにもなっていないので、何を感じながら見ていいのか最後まで分からなかった。
暇な金持ちコミュニティ
主人公は軍事用ドローンのICチップを開発したとかで、莫大な財を成したらしい。
現在は仕事らしい仕事をしている様子がなく、一日中家の用事にかかりっきりなので、妻の不貞も余計に目についてしまうのである。
そして、同じく人生を上がってしまった金持ち仲間とばかり遊んでおり、昼間っからみんなでカフェに集まってあーだこーだと話をしたり、ホームパーティを頻繁に開いたりと、暇を持て余して生きている。
そんな中で主人公が人を殺しているのではないかという疑惑が持ち上がったものだから、狭いコミュニティ内はその話題で持ち切りになるというのがサブプロットであり、この部分こそがエロティックサスペンスというジャンル内での本作の差別化ポイントだったと思われるのだが、これまた有効に機能していない。
そのうち、身銭を切ってまで探偵を雇って主人公を尾行させる者が現れるのだが、そいつの異常性も観客が実感を持てるレベルにまで昇華されていない。
暇すぎて他にやることがなく、ゴシップに明け暮れる上流階級のどうしようもなさ、ゴシップが独り歩きして実生活にまで影響を及ぼし始めるという恐ろしさが、まるで描かれていないのである。
エイドリアン・ラインの演出力低下問題
また、20年ぶりに現場復帰した元大御所監督の演出力が明らかに低下していたという問題もある。
本作はエロティックサスペンスに分類され、アルマスは常に露出の高い服装を着ているし、おっぱいも出す。
そんなわけで一応あるべき描写はあるのだが、演出が悪いためか、エロさや美しさはさほど感じない。ただアルマスが脱いでるだけという状態なのである。
未成年者を使っているために直接的な性描写を撮れないというハンデを抱えながらも、演出力のみでエロさを表現した『ロリータ』(1997年)の監督がここまでダメになるものかと、キャリアのブランクの恐ろしさを痛感した。
加えて、サスペンスとしても焦点を絞り込めていない。
主人公は妻の浮気相手のチャラ男に対し、「前の浮気相手は俺が殺した」と言って脅す。
で、実際にそいつを見かけなくなったものだから、主人公は本当に人を殺しているのではないかとの疑惑を持たれる。それが本作の骨子にあたる。
主人公を善良で子煩悩な人間だと思わせておいて、たまにマッドな一面も覗かせる。そうした描写の振れ幅で観客の認識を絶えず揺さぶることが本作のあるべき姿だったのだろうが、実際にはそうなっていない。
表情に乏しい能面フェイスのベン・アフレックは心中を読み切れないこの役柄に合っているのだが、演出が全然機能していないのである。
主人公が殺人について初めて口にした段階から、観客は「多分殺してるんだろうな」と思う。それほどまでに「そうではない可能性」を匂わせない。
主人公が殺人鬼であることを観客に対してバレバレにするならするで、彼が殺人鬼であることが発覚してしまうかもというサスペンスや、彼のマッドぶりで観客を凍り付かせるというスリラー路線に振り切っても良かったのだが、中途半端にミステリー要素を残しているものだから、演出に軸がない。
これまた、複数ジャンルを横断しながらも芯のあるストーリーテリングを披露した『ジェイコブズ・ラダー』(1990年)の時の手腕は見る影もない。
序盤の段階でほぼ結末の分かりきったミステリーの答え合わせを2時間かけてやってるような映画なので、面白いはずがない。
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