(2022年 アメリカ)
内容は『ワンダヴィジョン』の続編で、ついにMCU映画は連続ドラマまで押さえねばならなくなったかという徒労感を感じた。マルチバースという作り手にとって都合の良すぎる概念にも馴染めず、唯一良かったのはサム・ライミによる『死霊のはらわた』的演出のみだった。もう本当にMCUは潮時かもしれない。
感想
MCUファンも世代交代の時か
子供と一緒に吹替版で鑑賞。吹替の出来はよぉござんしたよ。
『エンドゲーム』後のMCUはぶっちゃけ惰性で見てるなぁというのは『エターナルズ』や『ワンダヴィジョン』の感想でも書いた通りだが、今回もあんまりテンションは上がらなかった。
『アイアンマン』に始まるMCUフェーズ1には来るべき『アベンジャーズ』に向けての流れを作り上げていく感じがあって、個別作品の出来がそこそこであっても(キャップの第一作とかつまらんと思うのだが)、これはこれでいいんだと思える雰囲気があった。
そこに来て現在進行中のフェーズ4だが、フェーズ3最終作『エンドゲーム』が公開された2019年春から3年以上が経過したというのに、いまだに大きな流れを生み出せていない。
にも拘らず映画やドラマは量産され続けており、かつ、「さっきのあれは『〇〇』の××でした」みたいな小ネタの挿入が頻繁になされているので、基本、目が離せない。
本作に関しても、基礎知識として見ておくべき作品はざっとこんなにある。
- アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン
- ドクター・ストレンジ
- アベンジャーズ/インフォニティ・ウォー
- ワンダヴィジョン
- ホワット・イフ…?
- ロキ
- X-MEN
特に『ワンダヴィジョン』との関連性は密接なのだが、ディズニープラス入会者でなければ見られない連続ドラマと劇場用映画が繋がっているという構造はなかなかにしんどい。こんなのは加勢大周主演の『パ★テ★オ』以来のことだ。
そんなわけで私は文句ばっかなのだが、一方、うちの子は物凄く楽しんでいた。
息子がMCUにハマったのはここ1年のことで、鑑賞済み作品数はあまり多くはないのだが、フェーズ3以前の作品との関連性が深くない本作は見やすかったらしい。
ここでハタと気付いたのだが、MCUは過去10年分の知識が蓄積されているおっさんのためではなく、現在展開中の作品を追いかける若い世代のために作られているのだろう。
そう考えるとうまい戦略だなと思うし、想定顧客から外れてきている自分はそろそろフェードアウトすべきかなとも感じる。
ワンダヴィジョンの続編
そしてもう一つ気付いたのは、もはや『ドクター・ストレンジ』(2016年)の続編ですらなくなっているということだ。
『ドクター・ストレンジ』は、スティーヴン(ベネディクト・カンバーバッチ)を魔術の道に導いた兄弟子モルド(キウェテル・イジョフォー)と袂を分かつところで終わった。その続編となればモルドをヴィランにすることが順当である。
一応、本作にもモルドは登場するのだが、それはあくまで別のユニバースに属するモルドであり、第一作に登場したモルドと同一人物ではない。よってスティーヴンとモルドとの因縁には決着がつかず、ドラマはほぼ断絶している。
では本作で一体何が描かれているのかというと、愛に飢えて闇落ちしたワンダの物語である。
彼女は『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で双子の兄クイックシルヴァーを、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で恋人ヴィジョンを亡くし、家族にはことごとく恵まれていない。
そして『ワンダヴィジョン』では禁断の魔術書「ダークホールド」を入手して魔女として覚醒し、いよいよ本作でスカーレット・ウィッチとしての本領を発揮し始める。
彼女はマルチバースを移動できる少女アメリカ・チャベスを手中に収め、子を持ち平和に生活している他のユニバースの自分の立場に置き換わろうとするのである。
本作における初登場場面で、ワンダはリンゴの実を育てている。聖書においてはリンゴ=禁断の果実であり、彼女はあっち側へ行っちゃったということが暗示されている。
そこから先は「アメリカをよこせ!」「いや渡せん」のみでストーリーが展開されていく。まぎれもなく本作はワンダの物語であり、『ワンダヴィジョン』の続編だと言える。
やっぱりマルチバースは好かんわ
ここで鍵となるのが、タイトルにもなっているマルチバースという概念である。
マルチとは「複数の」という意味であり、「単一の」を意味するユニの対義語である。すなわちマルチバースとはユニバースとは対照的な多元宇宙を示している。
そもそもの始まりは、何十年もコミックを続けている内に辻褄が合わなくなった設定を取り繕うために「あれはまた別世界で起こったことで~」と言い訳したことらしいのだが、作り手にとっては実に都合の良い概念であることから、アメコミ界ではかなり定着しているらしい。
映画界においても『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年)以降はマルチバースを前提としたストーリーが主流となっており、本作もまさにその流れの中にある。
マルチバースのメリットは、つながりにとらわれる必要がないという点にある。
設定やドラマが断絶していても問題がないし、実写映画であればキャストが途中降板するという厄介な悩みも解消する。
最近、MCU総帥 ケヴィン・ファイギが「俳優を契約で何年も縛り付けるようなことはやめる。降板したい俳優の要望は聞く」という趣旨の発言をしたが、マルチバースという仕組みが動き始めれば、役者の連続性にこだわる必要もなくなるのだ。
加えて、キャラクター同士のクロスオーバーをやりやすくなるので作劇の幅は大幅に広がり、スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』のような遊びも自由自在にできるようになる。
こうして書くと良いこと尽くめのようにも思えるが、マニアというのはチマチマとした理屈付けを好む生き物でもあるので、何でもありになりすぎることが、必ずしも観客のニードに一致しているとは言えない。
なぜMCUが支持されてきたのかと考えると、20作品が緩やかに繋がって一つのストーリーを形成したことにある。
そのピークである『エンドゲーム』のラストでは破綻もなしにすべてのヒーローを一堂に会させた。これに「よくぞここまでやり切った!」と全世界の観客が感動したのである。
もしもマルチバースによってキャラを自由自在に配置できるようになれば、このような感動は得られなくなるだろう。
実際、私はマルチバースを導入した辺りから急激に冷めてきた。取り留めもないことになってきたと感じたためだ。
少年ジャンプに馴染んできた日本の読者なら身に染みて知っていることだが、作り手にとって都合の良すぎる仕組みの導入は、その作品を急激に劣化させる。
その最たる例が『ドラゴンボール』で、「スーパーサイヤ人」という後付け設定によって正義の側は無秩序に強くなっていき、また死者の復活が頻繁に行われるようになって、戦いからは緊張感が失われた。
日本の漫画界はすでにその弊害から学んでおり、パワーや設定がインフレを起こさないよう意識的にセーブをかけるようになっている。
そう考えると、MCUは随分と遅れてるねぇと思ってしまう。
サム・ライミの力技に救われる
そんなわけで文句ばかりを書いてきたが、唯一良かったのはサム・ライミの演出である。
古参のアメコミファンであるサム・ライミがマルチバースという考え方を好意的に見ているのかどうかは知らんが、これを逆手にとって好き放題やっている。
「ダークホールド」と「ヴィシャンティの書」という二つの本がキーアイテムとなる時点で『死霊のはらわた』(1981年)だし、ゾンビを出したり悪霊を出したりと、自分の領域にMCUを引きずり込もうとする大胆不敵さも気に入った。
見せ場の連続ながらも個々の見せ場にはメリハリがあって、単調さは感じなかった。ワンダがカマー・タージを襲撃する場面や、ゾンビ・ストレンジという奇策を発動させる場面では容赦なく盛り上がる。
パロディになる一歩手前で王道を守っているという絶妙なサジ加減は『ダークマン』以来のものであり、ライミの真骨頂を見たような気がした。
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