(2022年 アメリカ)
ケイト・ブランシェットの演技力には一見の価値があるけど、説明を排した結果冗長になりすぎた語り口や、アカデミックで退屈な会話劇は個人的に合わなかった。現代のキャンセルカルチャーに対する深い洞察には感心したけど、主題の提示が遅すぎたような気がする。
感想
凄いけど退屈な映画
Amazonプライムでの配信で鑑賞。映画ブログを名乗っている割に動画配信で観た映画(しかも無料に落ちてきたやつ)の話ばかりしていて、果たしてこれでいいのかと思わなくもないけど、とりあえずお付き合いいただきたい。
『ツイスター』(1996年)や『ホーンティング』(1999年)なんかに脇役として出ていた元俳優トッド・フィールドが脚本・監督を務めた映画で、彼にとって監督三作目にあたる。
監督デビュー作の『イン・ザ・ベッドルーム』(2001年)は、一人息子を殺された老夫婦が心に空いた穴をいかにして埋めるか悩み苦しむ物語で、題材の良さもあって当時は大絶賛されたけど、私はあまり合わなかった。
この監督のスタイルは説明を大幅に省くことと、衝撃的な題材ながらも劇的な描写を極力挟まないことで、ゆえにストーリーテリングは冗長化する傾向にある。
一方、監督第二作目の『リトル・チルドレン』(2006年)は小児性愛者という強めのキャラを投入した結果、より大衆化されていて私は大いに楽しめた。
果たして監督第三作目の本作がどちらに振れたのかというと、残念ながら第一作のスタイルに回帰していた。
ストーリーテリングにたっぷりとした時間をとっており、冒頭70分間にわたって主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェット)の人となりを、それはそれはじっくりと見せてくる。
ここでのエピソードのいくつかが後半に効いてくるとは言え、本題に入るまで70分というのは長すぎる。寝落ちしかけて何度も何度も巻き戻しながら見た。
リディア・ターは国際的に著名なマエストロなんだけど、自分にも他人にも厳しい性格が、やがて周囲との不協和音を起こし始める、マエストロだけにね、というのがざっくりとしたあらすじ。
元俳優というだけあってこの監督は俳優の動かし方が抜群にうまい。しかも本作はケイト・ブランシェットの当て書きで、もしもブランシェットから断られたらお蔵入りさせるつもりでいたというのだから、彼女の演技には鬼気迫るものがあった。
完全フィクションなんだけど、本当にこういう人がいるんじゃないかと錯覚させるほどの迫真性なのだ。
とはいえ、ブランシェットの演技力だけで長尺を持たせることは困難だった。もう少しサービスがあっても良かったんじゃなかろうか。
ダーレン・アロノフスキー監督の『ブラック・スワン』(2010年)のように、主人公が徐々に精神崩壊していくという刺激的な展開をちょっとだけ期待する自分もいた。
合間合間にリディアの幻覚・幻聴カットが入るのでそうなるだろうなとは思っていたし、ケイト・ブランシェットの演技力でそれをやればさぞかし凄いことになるんだろうなという期待もあったけど、結局、そういう展開はなし。
↑の日本版ポスターに記載されている「狂気」というワードは、観客を誤誘導する元だと思う。
最後まで見ればお分かりになるけど、これって狂気を描いた話ではなく、一般人からはかけ離れたメンタリティを持つ天才が平常運転を続けた結果、周囲を滅茶苦茶にする話だから。
序盤にたっぷりと時間を使う一方で、世間からのバッシングが本格化した後の展開は妙に駆け足で、彼女が追い込まれる様をじっくりとは見せてくれない。
しかも徹頭徹尾リディアの主観のみで描かれるので、第三者によるバッシングがいかに苛烈なものなのかも、観客にはっきりと分かる形で提示されない。
唯一、車で移動中のリディアに向かって沿道から「リディアを降ろせ」的なプラカードが見える数秒のカットで、彼女へのバッシングはかなりのレベルに達しているということが読み取れるんだけど、あの数秒だけでは情報不足だろう。
私の期待するものが根本的に間違っていたのかもしれないが、それにしても観客に対するサービス精神が欠けているような気がする。
天才は良い人じゃなきゃいけないのか
…と、映画としての面白さは感じなかったのだけれど、描かれるテーマには興味をひかれた。
表面的には、他人に対して酷い仕打ちをしてきたリディアがしっぺ返しを喰らう物語であるが、その実描かれているのは、非凡な才能を持ち、人並み外れた努力をして頂点に立った者が、そのうえ人格面でも優れていなくてはならないのかというテーマである。
アスリートとして突出しているだけでなく、謙虚でトラブルを起こさない大谷翔平みたいな「人生何周目ですか?」と聞きたくなる聖人も居るには居るけど、一般的に才能と人柄は正比例しない。
能力が高い分、周囲を見下しているとか、自分に厳しい分、他人に対する要求値も高いとか、謎のこだわりを炸裂させて関係者を疲弊させるとか、その道を究めた者には特有のとっつきにくさがある。
劇中、カラヤン(20世紀最大のマエストロ)だって人間的には問題あっただろ的な指摘がある。
映画界で言えば、傑作ばかりを作り続けたスタンリー・キューブリックは超が付くほどの嫌な野郎だった。
では、カラヤンはタクトを取り上げられ、キューブリックは撮影現場から締め出されるべきだったのか?
彼らの芸術的な貢献度から考えて、多くの人は”No”と答えるだろう。
しかし現代の天才たちは人格面での清廉さまでを要求されて、いかに才能があろうと庶民的な感性で裁かれ、場合によっては創作の場からの締め出しを受けかねない。
もしかしたらカラヤンやキューブリッククラスの才能を庶民が全力で潰しにかかっている可能性すらあるが、長い目で見て、そのことは善と言えるのだろうか。
リディアは欧米での活動に見切りをつけ、自分を求めてくれるアジアの発展途上国へと活動の拠点を移す。欧米の芸術界は、偉大な才能をみすみす他人に譲り渡したというわけだ。
そしてリディアが犯した罪の中には、性的嫌がらせも含まれている。
同性愛者であるリディアは若い演奏者にすぐに手を出す癖があるが、数年前に好意を拒否された相手に対しては、業界内で仕事ができなくなるよう各方面に手を回し、徹底的に潰しにかかった。結果、相手の女性は自殺。
偶然の一致だろうけど、日本人ならば否応なしに故ジャニー喜田川氏の事件を連想させられる。
私個人の意見として、旧ジャニーズ事務所へのバッシングは行き過ぎている感があると思う。
ジャニーズ事務所に問題がなかったとは言わないが、そうは言っても創業者個人の犯した罪だし、しかも刑事告発されて事実関係が公に確定されたものは一件もない。
残った者達が事実関係の不明確な罪を丸抱えさせられる、もしかしたら被害者だったかもしれないタレントたちが懺悔させられるというのは、ちょっと異様な光景に感じる。
私は特段にジャニーズのファンというわけでもないが、客観的に見て日本のエンタメ界への貢献度合はかなり大きく、創業者の罪を理由にその功績を全否定してしまうことは喪失ではないかと感じる。
罪は罪、芸術は芸術であるべきだろう。
幸か不幸かリディアは何事にも動じない強靭なメンタルを持っていた。世間からどれだけ叩かれようが、身近なパートナーたちに去られようが、自分が原因で人が自殺したかもしれないという可能性を突き付けられようが、彼女は何も反省しないし、変わろうとしない。
こんな自分を受け入れる先を探すのみなのだ。
見る人によっては「なんて酷い人なんだ」と思うかもしれないけど、私は「天才とはこうあって欲しいものだ」と感じた。
私の感性がおかしいのかな?
コメント
非常に興味深い感想でした。大谷選手に限らず大勢の目に触れるメディアであれば余計なことは言わないのが得なのではないかとは思いますが、日本ではかなり分野問わず才能ある人に品を求める風潮はあるのではないでしょうか。
また、過激な言動をしながらそれがキャラ性としてSNSで消費されている人もいますが、これは若年層にはそうしたパフォーマンスであると理解された上でのもののようにも見受けられました。
才能ある人の常人離れした素行を楽しめる余裕が日本人にもあればいいと思うんですけど、今はちょっとのことで「不適切!悪影響!」と騒がれる時代ですからね
今日もかなり面白いです!
確かに才能ある人が人格面で優れている必要性はありませんよね。
世間や社会と個人のボーダーがsnsにより曖昧な部分も持つ現代ではよりテーマが面白く感じます。
ところで以前に記事のサムネになっていたセッションのレビューはいかがでしょうか?
私の拝見した範囲では無かったように思われるのですが、このブログを見ているとこの作品のレビューはないのが意外だなと感じられました。
そういえば「セッション」のレビューをまだ書いてませんでした