ウィッチ_人は見たいと思うものを見る【7点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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実録もの
実録もの

(2015年 アメリカ・カナダ)
1630年ニューイングランド。清教徒の中でも特に敬虔なウィリアムは村に馴染めず、家族と共に荒野での自給自足の生活を開始する。そんなある日、5人の子供のうちの一人の赤ん坊サムが行方不明になり、その直前に一緒にいた長女のトマシンに悪魔憑きの疑惑がかかる。

© 2016 – A24

スタッフ・キャスト

監督・脚本はプロダクションデザイナーのロバート・エガース

1983年ニューハンプシャー州出身。元はニューヨークの演劇界でプロダクションデザインやコスチュームデザインをやっていた人物であり、2007年より活動を映画界にも広げて主に短編のプロダクションデザインや脚本・監督を務め、初の長編作品である本作でサンダンス映画祭監督賞を受賞しました。

主演は『スプリット』(2017年)のアニャ・テイラー=ジョイ

1996年マイアミ出身。アメリカで生まれた後にはアルゼンチン、ロンドンと生活の拠点を移していったのですが、14歳の時に女優を目指してニューヨークへ移住しました。2015年よりテレビドラマに出演するようになり、本作で高い評価を受けました。

パッチリなんだが離れた目という特徴のある顔立ちで特にホラー映画との親和性が高く、M・ナイト・シャマラン監督の『スプリット』(2017年)と、その続編の『ミスター・ガラス』(2019年)に重要な役柄で出演し、X-MENフランチャイズで初のホラーとなる『ニュー・ミュータンツ』(2020年)にも主演しています。

各パーツは美しいのだが、やや崩れた配置が特徴的。一目で覚えられるこうした顔立ちの女優さんはジャンル映画で強みを発揮します。

登場人物

  • トマシン(アニャ・テイラー=ジョイ):思春期を迎えた一家の長女。難しい年頃のためか、弟ケイレブを除く家族との折り合いが悪くなっている。
  • ウィリアム(ラルフ・アイネソン):一家の父。敬虔な人物であり、家父長としての立場にこだわりをもっているが、実際には生活力がなく、妻にも頭が上がらない。
  • キャサリン(ケイト・ディッキー):一家の母。現在の生活に不満を持っており、イングランドに帰りたいと思っている。演じるケイト・ディッキーはテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のライザ・アリン役でも頭のおかしい母親を熱演していました。
  • ケイレブ(ハーヴェイ・スクリムショウ):一家の長男でトマシンの弟。それまで尊敬してきた父ウィリアムの発言がちょいちょいおかしいことに気付き始めている。また、思春期を迎えて性欲を抑えきれなくなりつつある。
  • マーシー(エリー・グレインジャー):一家の次女でジョナスとは双子。厳格に育てられたトマシン、ケイレブとは対照的に放任主義で育てられており、特に姉を困らせる言動が多く、悪魔並みにムカつくガキンチョ。
  • ジョナス(ルーカス・ドーソン)一家の次男でマーシーとは双子。マーシーと同じく放任主義で育てられているが、悪質性はマーシーよりも低い。
死ぬほどムカつくこと必至の次女マーシー。無駄に太りやがって!

作品解説

時代設定は1630年

映画の舞台は1630年のアメリカであり、1776年の独立よりも150年近くも前です。当時は欧州各国がアメリカ大陸を植民地化していた時期であり、ちょうど同時期に起こった宗教改革から生み出された新教徒達がヨーロッパでの迫害を受けた末に、カトリックの影響の少ない新天地を目指して移民をしていました。

物語の大部分は、当時の記録に基づいている

物語の筋や会話の大半は17世紀の記録を元にしており、セリフ中には当時の記録そのままのものもあります。特に、一家の長男ケイレブの死、及びその過程における二人の兄弟の行動は、有名なセイラム魔女裁判の記録に基づいています。

動物たちの意味するもの

野ウサギ

植民地時代のニューイングランドでは、野ウサギは魔法の生き物と考えられていました。人々をスパイしてその心理や行動に影響を与えるために、魔女が野ウサギに変身していると考えられていたようです。

山羊

中世には、サタンは山羊の形をしていると信じられていました。

感想

現実と妄想の入り混じった理解の難しい作品

まず断っておくと、この映画の理解は非常に困難です。映画というものにはたいてい作り手側の思いや解釈というものがあって、観客は最終的に「作り手は何を言おうとしていたのか」を辿れば作品の内容をおおよそは理解できるものなのですが、本作はそれが極めて希薄なのです。

エンドロールでクレジットされている通り、本作は有名なセイラムの魔女裁判をはじめとして17世紀の文献をあたり、それらを繋ぎ合わせて作られた作品です。なので作品は魔女の存在を肯定も否定もしておらず、魔女という不確かな存在を当時の人々はどう受け止め、それが彼らの生活や人生にどう影響を与えていたのかを切り取るに留まっています。

加えて、現実なのか妄想なのかがよく分からない描写が多い上に、一体誰の主観なのかも判然としないために、見る人によって解釈が大幅に異なる作品となっています。10人が見れば10の解釈が出てくる作品であり、ある人はドツボにハマった家族が集団ヒステリーに陥る話だと受け止めるが、ある人は悪魔が敬虔な人々の心に付け入るまでの話だと受け止める。そんな作品です。

生活力のない家族の崩壊劇

主人公一家は母国イングランドでの抑圧に耐えかねて新大陸を目指した清教徒なのですが、志を同じくしているはずの新大陸のコミュニティにも馴染むことができず、半ば喧嘩別れのような形で村を出ていく様が冒頭にて描かれます。

しかし一家の大黒柱たる父は狩猟も農業も苦手で自給自足の生活など不可能であり、困難にぶち当たるとひたすら薪割りをして気持ちを鎮めます。なぜなら、それが唯一の得意なことだから。クライマックスでは、今まで彼が向き合ってこなかった問題の数を示すかのように納屋の横に大量の薪が積まれており、父親はその薪の下敷きになるという冗談のような最後を迎えるのですが、まぁそんな男です。

薪割だけは任せとけ!

そして、このタイプの父親は家の外で尊敬を受けられない分、家族の前ではデカい面をしたがるもので、長男や長女に対しては非常に厳格に接します。しかしどれだけ家庭内でえらそうにしたところで「生活力がない」という現実は変わるはずがなく、崩壊の時は刻一刻と迫るのでした。

悪いことを悪魔のせいにしたくなる心理

そんな父が薪割り以外で誇れることとは信仰心でした。そもそも一家が村を出て行くことになった経緯も、その厳格すぎる信仰が周囲との軋轢を生んだ結果のようだったのですが、この一家の信仰は困難に立ち向かうための力ではなく、むしろ現実逃避という悪い方向に作用しているようでした。

何もかもがうまくいかない、しかも父には変なプライドがあって村でうまく立ち振る舞うこともできない。そんな中で、目の前の問題を直視せずに済む逃げ道こそが神頼みだったのです。私たちはこれだけ日々神様を思っているのだから、神様も我々を見捨てることはないだろうという、神に対して信仰という保険をかけるような生き方をしています。

会社にもいますよね。業績向上やスキルアップといった現実的な目標を見据えた努力や自己研鑽に励むのではなく、愛社精神や経営者への忠誠といった内側にこもった精神活動で社内での自分の立場や待遇を守ろうとする実力のない人って。何か困ると「私はこんなに会社を思っているのに」などと言い出すのですが、じゃああなたがどれだけ業績に貢献できているんですか、会社を前に進めるための活動が出来ているんですかと問われると、何も言い返せないという。この一家は、まさにこういうベクトルで生きています。

しかし物事は何も好転していかない。むしろどんどん悪化していっている。目の前の問題への対応策を講じていないのだから当然っちゃ当然なのですが、この一家は「これはおかしい、悪魔が我々の邪魔をしてるんじゃないか」という安易な逃げ道を作って、自分達が悪いという現実を見ないようにしています。

赤ん坊を連れ去ったのは一体誰なのか

末っ子サムの神隠し。これが一家の大混乱の直接的なきっかけとなります。この事件について作品は明確な答えを出しませんが、私は父による口減らしだったと解釈しました。

この父親は「一家を守るため」という大義名分さえあれば独断で動く傾向があります。それは奥さんに黙って大事な銀カップを狩猟用のトラバサミと交換した件からもうかがい知れます。事前に相談すれば反発を受けることが分かっているので黙って家財を売り渡し、可能な限り秘密にしておくという姑息な動き方をするのです。また、長女を奉公に出して一家の口減らしをした上で奉公先から一時しのぎの金銭を受け取るという決断を、長女当人に一言の相談もなしに進めていた件からも、同様の傾向は読み取れます。

これらから考えると、このままでは一家が冬を乗り切れないと判断した父は、口減らしのために赤ん坊を殺したのではないかと思います。ただし、ノイローゼ気味の妻がそんな判断に同意するはずがないし、子供達は生活力のない自分を恨み始めるはずだと考えて、超自然的な力が働いたという誰も傷つかない言い逃れをしたのでしょう。まさか、ショックを受けた妻が長女を魔女だと言い始めるなどとは考えもせずに。

※注意!ここからネタバレします。

長女は本当に魔女になったのか

両親に任せていてはどうにもならないと感じた長男と長女は自ら村へと出向こうとするのですが、その道中で長男は一家にとって残された財産である馬と銃を持ったまま森の中で迷子になり、一家はいよいよ追い込まれます。

そこから母親は長女の悪魔憑きを本格的に疑い始め、ようやく戻ってきた長男は『エクソシスト』(1973年)のリーガンの如く悪魔の脅威や神からの救いを体全体で表現した後に絶命し、祈りを唱えられなかった次男と次女にこそ悪魔が憑いているのではないかとの新たな疑念がわき、一家は完全な崩壊へと向かっていきます。そして、父は黒山羊の角による一突きで絶命し、長女は悪魔との契約を交わして森の奥深くへと入っていくのでした。

このラストが意味するものとは何なのか。表面的に捉えれば、長女が魔女になるまでの過程ということになるのですが、本作が当時の人々の主観による記録を元にした映画であるという点が引っかかります。

当時のアメリカに居たのは、ヨーロッパ社会と折り合えなかった敬虔な清教徒たちであり、彼らは神・悪魔・魔女というものを当然の存在として信じていました。そんな人々が困難にぶち当たれば、実際にはそうでなくても神や悪魔の介在だと解釈し、場合によってはそういった存在を自分の目で見たと信じたのではないか。本作にはそんな含みがあります。

それまでじわじわと不信が広まっていたドラマが急展開を迎えたのは、長男を失った直後の父と長女の会話からでした。父は長女に対して悪魔との契約を解いてやるからすべて告白しなさいと穏やかな口調で話し始めます。この時点で父は長女の悪魔憑きを本心から信じていたのではなく、どうしようもなくなった現実に対して、悪魔という存在での説明がつけば楽だというご都合主義がまだあったように思います。ここで長女が自分に魔が差した瞬間を告白し、教会で悪魔祓いの儀式でもやれば、起こってしまった悲劇に対して終止符が打たれて妻が納得し、すべてが円満に収まるはずだという打算が父親の頭の中で働いていたように思います。

しかし、我慢の限界を超えた長女は父親に対して本心をぶちまけます。銀カップに係る誤解が原因で子が母親から責められても真実を言い出せない臆病者で、猟も農業もできない無能な父親には任せていられないから、長男は森へ入って行ったのだと。悪魔など関係なく、目の前の生活の問題だったのだと。図星を突かれた父親はここで自らの無能を反省するのかと思いきや、こんな親不孝なことを言うのは悪魔の仕業だ、娘には悪魔が憑りついているに違いないという超絶自分勝手な解釈を始めます。

ここから作品は急激に超常的な方向へと振り切れていくのですが、それは悪魔の存在を信じたい父親と、その父親から魔女扱いされる中で実際に自分が魔女であると考え始めた長女の主観で捉えられた光景だったからではないでしょうか。実際にはただの近親者同士の殺し合いなのですが、自分ではなく悪魔が手を下したと考えたいがために、当事者にはあのような見え方になっていたのではないかと思います。

宗教にとどまらない教訓

以上、表面的には超常現象を信じている人々に起こるヒステリーの話なのですが、気の持ちよう次第で物事の捉え方が歪められるという現象は、宗教が絡んでいなくても起こりえます。

私自身の恥ずべき歴史として、若い頃に仕事がうまくできなくて、直属の上司から辛く当たられていた時期がありました。その時は上司によるパワハラだと受け取って同僚に相談などもしていたのですが、数年後に振り返ると完全に自分の力不足が原因であり、直属の上司からは当然の叱責を受けていただけということに気付きました。

組織と部下を持たされた現在から考えると、無能な部下を放置せず正面からぶつかってくれていた良い上司だったと言えるほどであり、当時の私は自分自身の手落ちを棚に上げて、「ハラスメント」という自分を絶対的な被害者の立場に置ける体の良い言葉に逃げ込んでいたのでした。これって、厳しい現実を突き付けてくる娘を「魔女」だと言って切り捨てた本作の父親と同じ反応ですよね。当時の私は自分がパワハラを受けているものと真剣に考えており、自分の側の落ち度を疑いもしていませんでした。

物事がうまくいかない時、人は正常な判断能力を失うことがよくあります。自分のプライドを守るという防衛本能が無意識のうちに働き、正確な状況評価を歪めてしまうのです。そんな普遍的な恐ろしさも、本作はうまく切り取っているように感じました。

まとめ

登場人物は理想からは程遠い人物ばかりであり、不快度数のかなり高いドラマではあるのですが、人間の不完全さゆえの主観の不安定さを浮き彫りにするという点で、ドラマとテーマが見事に融合した作品だったと言えます。観ていて楽しい映画ではないのですが、観るべき価値の高い作品でした。

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