丑三つの村_闇と病みが足りていない【5点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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実録もの
実録もの

(1983年 日本)
1938年に岡山県で発生し、被害者数の世界記録を長期間に渡って維持していた津山三十人殺しの映画化なのですが、殺人鬼のドロドロとした内面に迫るようなドラマでもなければ、凶行の凄絶さにも欠けており、史実のインパクトに引けを取っていました。

あらすじ

昭和初期の岡山の寒村で犬丸継男(古尾谷雅人)は祖母と共に暮らしていた。村一番の秀才だった継男は村内でも羨望の眼差しで見られる存在であり、師範学校入学を目指して勉学に励む毎日だった。そんな折、徴兵検査によって肺結核にかかっていることが判明して兵隊になるという夢は潰え、村人たちからは一転して軽蔑の視線を受けるようになる。

スタッフ・キャスト

製作は名プロデューサー奥山和由

1954年愛媛県出身。後に松竹社長に就任する奥山融の息子で、大学卒業後の1979年に松竹に入社し、『凶弾』(1982年)より映画製作に携わりました。

日本映画界の改革者であり、映画会社による干渉を避けるために製作委員会方式をとったり、映画ファンドを作ったり、大手映画会社が製作・配給・興行の3部門を統合的に経営するブロックブッキングを解消したりと、革新的な試みを次々と実施していました。

その根底にあったのは、映画会社が作りたい映画と観客が見たい映画のズレを解消したいという思いだったと推測します。

そんな過程で実施していたのが北野武や竹中直人といったタレントの監督化であり、それぞれが海外で映画賞を受賞するという実績を残したのだから、プロデューサーとしてさすがの慧眼だったと言えます。

ただし性急な改革は大きな反発を生み、1998年に松竹役員を解任されました。

以降も映画に携わり続けてはいるのですが、松竹時代ほど派手で大掛かりな作品は作れていません。

監督は日活ロマンポルノの田中登

1937年長野県出身。明治大学文学部在学中より映画業界に出入りし、黒澤明監督の『用心棒』(1961年)にアルバイトとして参加。

新卒で日活に入社し、日活ロマンポルノ作品『花弁のしずく』(1972年)で監督デビュー。映像へのこだわりからロマンポルノのエース監督となり、全盛期には3度もキネマ旬報ベストテン入りをしたほどの高評価を獲得しました。

1981年にフリーになって本作を監督したのですが、以降はテレビの2時間ドラマの演出が活動の中心となっていきました。2006年逝去。

作品解説

津山三十人殺しとは

1938年5月21日に岡山県で起きた殺人事件であり、一人の男が村人30人を殺した事件でした。たった111人しか住んでいない小さな集落で30人が犠牲になったのだから、これがいかに壮絶なものだったかがわかります。

1982年に韓国で発生した宜寧事件に抜かれるまで半世紀近くに渡って殺人事件での死亡者数での世界記録を保持し続けた大事件であり、これにインスピレーションを受けた横溝正史は『八つ墓村』(1971年)を執筆したのでした。

なお本作で使われたオープンセットは、映画『八つ墓村』(1977年)での30人殺しの場面で使用されたのと同じものでした。

登場人物

  • 犬丸継男(古尾谷雅人):村一番の秀才であり、兵隊となってお国のために戦うことを目標としているが、肺結核にかかっていることが発覚して徴兵検査で弾かれる。以降は村内での尊敬が軽蔑へと転化していき、次第に村人達を恨むようになる。
  • はん(原泉):継男と二人暮らしをしている祖母。秀才である継男は自慢の孫であり、過保護なほどかわいがっている。暮らし向きは普通であるがそれなりの資産を持っているようで、ミオコに金を貸している。
  • やすよ(田中美佐子):継男の幼馴染であり相思相愛となるが、その後、別の男との縁談が決まる。
  • 赤木ミオコ(五月みどり):子沢山の主婦であり、生活が苦しいためにはんによく借金をしている。夫が単身赴任で留守にすることが多いことから継男との関係を持つ。
  • 千坂えり子(池波志乃):夫が従軍中であるため男の夜這いを受け入れており、継男との関係も持つ。
  • 竹中和子(大場久美子):村の美少女で、咳き込む継男に優しく手ぬぐいを貸したことから自分に気があると勘違いされてしまい、最終的には殺害リストに載ってしまう可哀そうな人。

感想

闇や病みが足らない

この映画のことはまったく知らなかったのですが、Amazonプライムにアップされていたので何となく見始めました。

映画を再生しつつスマホで調べると、悪名高き津山三十人殺しの映画化企画であり、公開時には成人指定だったとか、ソフトが長きに渡って廃盤状態だったとか、いろいろとそそる情報が出てきて俄然期待が高まったのですが、全部見終わっての感想は「たったこの程度か…」でした。

テンポは良いしエログロという刺激が定期的にあるので決してつまらなくはなかったのですが、題材から予想されるレベルの映画ではなかったなと。

なぜこんな感想に至ったのかと考えると、田舎の青年が世界記録レベルの殺人事件を起こすに至るほどの闇とか病みが足らなかったことが挙げられます。

津山三十人殺しをちょっと調べてみると、山間の村ならではの閉鎖性や、23世帯111人という小さな社会であるにも関わらず夜這いの因習があって(生存者は否定しているようですが)人間関係が込み入っていたことなど、この村自体に大きな問題が存在していたことが分かります。

微妙なバランスの上に成り立ってきた村において、不幸にも悪口・陰口のターゲットにされてしまった元秀才が追い込まれていき、最終的に暴発してしまった。事件の概要を見る限りではそんな印象を持ちました。

しかしこの映画では、主人公・継男(古尾谷雅人)が居場所を失っていくような閉鎖社会の息苦しさをさほど感じなかったし、もう一人の主人公である村全体が発する負のエネルギーみたいなものも感じませんでした。

作品の言わんとすることは分かる。でも親戚関係にある30名の隣人を虐殺するほどの激しい憎悪を感じさせるレベルに達しておらず、どうにも不完全燃焼。

村社会の闇と継男の病みが致命的に不足しているのです。

継男のキャラクターは面白い

そんな物足りなさを感じつつも、継男のキャラクター自体には面白い部分が多くありました。

モデルとなった都井睦雄は21歳で凶行を起こしており、本作の継男も同じ年齢に設定されていると考えられます。そして21歳という年齢を念頭に置いて見ると、継男は年齢不相応なほどに幼く、何も為さずただプライドのみで生きてきた人間だということが分かります。

21歳といえば学校に通っているか仕事をしているのかどちらかの年齢なのですが、継男は「試験勉強をする」とだけ言って日がな一日を過ごしており、生産的な活動を何もしていません。

そんな生活を可能にしているのは隣家に比べると資産があって労働をしなくても食べられるという経済的余裕と、彼のわがままを許し続ける祖母の愛情と、ロクに学問というものに触れたこともなさそうな村人たちから向けられる尊敬の眼差しでした。彼はたまたま勉強ができたおかげで特別視されており、あらゆる義務から解放された状態にあったのです。

ただし神童と持て囃される継男の学力レベルが実際のところ如何ほどだったのかは分かりません。「試験勉強」と連呼してはいるが何かの試験に受かったわけでもない辺りを見ると、井の中の蛙状態だったのではないかとも思います。

もうひとつ継男の特徴は、生まれ育った村の実情をまったく知らないということでした。

村の男達は自警団を結成して夜な夜な見回りに努め、村に害を為しそうなよそ者に対しては実力行使も厭わぬ姿勢でいました。それが良いか悪いかはともかく、この村はそうした男達の努力により維持されてきたのですが、継男は今の今までそんなことが行われていることを知らずにいたのでした。

夜這いという因習にしても同じくで、村人たちの性はかなり乱れていたのですが、継男は夜歩きしたことで偶然に知るまでは夜な夜な行われている因習に気付きもしませんでした。幼い子供たちすら大人たちの性関係をある程度認識している中で、継男だけはまったくの無知だったのです。

誰もはっきりとは口に出さないが、その共同体に居る者なら何となく弁えていること。これが継男にはあまりにも欠けていました。

そんな真っ白な状態から村で夜な夜な行われているセックス&バイオレンスという刺激を知った継男は、極端な振れ方をします。村の女たちは自分の相手をしてくれるということで夜這いに精を出しはじめ、秘め事として隠す気もないので相手の旦那とのトラブルにも発展するのですが、謝るどころか居直る始末。

ちょっと優しくしてくれた美少女 和子(大場久美子)が自分に惚れているものと思い込んで夜這いに行き、拒否されても自分にとってネガティブな情報を受け入れない。そして和子に別の男との縁談が決まると裏切られたと思って復讐心を抱く。

もう滅茶苦茶なのです。滅茶苦茶なのですが、大人の世界の一員になったことで調子に乗って行きすぎた行動に出たり、異性からちょっとモテている時に自意識過剰になったりという精神状態は元青年として分らんでもないので、見ていてある程度の共感はできました。

特に継男は比較対象が極端に少ない閉鎖社会の住人なので「上には上がいる」という感覚がなく、井の中で自意識だけを蓄えてきたという外部要因もあることから、その勘違いが激しいものになってしまうことも致し方なかったのかなと思います。

そして結核が判明して以降の周囲の豹変ぶり、今までみんなで持ち上げてきたものを突然落とすという中にも世間というもののイヤ~な感じが漂っており、その変化に対応できない継男の戸惑いも理解できました。

継男には実態以上に肥大化した自意識を収める作業がいつかは必要だったのですが、それがあまりに早く、あまりに急にやってきたことから心の整理がつかなくなり、周囲への逆恨みへと繋がったのではないか。

前述したとおり、それが親戚30名を殺すほどの激しい怒りにまでは見えないので突っ込みは足りていないのですが、それでも心の幼い青年の物語として、方向性は間違っていなかったと思います。

虐殺場面はおとなしめ

かくして継男は逆恨みをした住人たちの虐殺を開始します。

ガシャッガシャッと装備を身に着けていく描写にこそ『コマンドー』(1985年)を2年も先取る先進性があったのですが、いざ虐殺に入ると殺し方にバリエーションが少なく単調な印象を持ちました。

技術的限界からか人体破壊描写にこだわりがなく、被弾したり刺されたりして血が出るという描写を何度も何度も繰り返すだけだし、加害者と被害者との間の文字通り命を懸けた言葉の応酬戦もなく、なんだか全体的におとなしめでした。

また『タクシードライバー』(1976年)のような、主人公の鬱屈したドラマの集大成としてネガティブな感情が噴き出すようなバイオレンスにも昇華できておらず、起こっていることの重大さの割には心に響くものがありませんでした。

世界的な殺人事件を扱うのだから、観客に対して衝撃を与える姿勢が必要だったと思います。

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