【雑談】新型コロナ騒動で発狂した日本社会と、私の反省点

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雑談

今回は、思うところあって映画とは関係ない話を書きます。なので関心のない方は読み飛ばしていただいても構いません。

緊急事態宣言の延長

本日2021年3月3日、菅総理は首都圏一都三県の緊急事態宣言延長の意向を示しました。理由は「病床が逼迫している状況、厳しい指標、ぎりぎりの指標もある」というものでしたが、私には理解不能でした。

つい一か月前までは「新規感染者数が一日500人以下になったら」と言ってませんでしたっけ?私が知らない内にゴール設定が変わったのでしょうか。

私はこの宣言延長には反対です。

しかしこの場でしたいのは政権批判ではありません。なぜなら、政府は日本国民の安全意識に忖度して宣言の延長を決めたようにしか見えないからです。もし自由な社会生活に戻ることが国民の総意であれば、政府は自信を持って宣言解除に踏み切ったことでしょう。

今の日本国民はコロナに怯え、指標の僅かな動きにも一喜一憂し、何かわかりやすい攻撃対象を探して常にピリピリとし、生命至上主義の罠に陥って集団ヒステリーを引き起こしている、どうしようもない群れに成り下がってはいないでしょうか。

コロナを恐れてほとんど発狂した状態にある日本社会について見聞きしたことや、私自身の反省点などをあれこれ書いていきます。

日本社会は分裂状態

私は10年以上東京に住んでいるのですが、出身は中国地方です。そして奥さんは東北地方出身で、年に一度は子供達を連れて両家に帰省していました。

それがコロナ禍が始まって以降は帰省の目途が立たず、今後いつ帰省できるかも分かりません。

特に奥さんのお父様は認知症を発症しており、まだ人物を認識できるうちに子供達とのふれあいの機会を多く作っておきたいと思っているのですが、実家のお母様からは「絶対に帰省するな」と釘を刺されています。

なぜなら、県外の人間に対する警戒心がとんでもないことになっているから。

ある親戚が亡くなった際に、東京から帰省した故人の息子までが「なぜこんな時に戻ってきたんだ」と白い目を向けられたと言います。

確かに感染症対策は大事だし、田舎の葬式ともなればご高齢者が多く参列するのでナーバスになることは理解できます。それにしても、こうも簡単に人の道から外れることができるものかと驚きます。

故人の息子が肩身の狭い思いをさせられ、久しぶりに会った家族との時間を過ごすことも許されずに帰らされるという異常。その人物が感染しているわけでもないのに、「東京から来た」というだけで差別を受けるという異常。

今回のコロナ禍でのパニックは「過度の安全意識」のみならず、「高齢者が若い世代に対して抱く不信感」「田舎が大都市に対して抱く劣等感ややっかみ」といったものまでがない交ぜ状態になり、「感染症対策」という絶対正義の元ですべてが噴出したという構図が読み取れます。

それはフランク・ダラボン監督のホラー映画『ミスト』(2007年)のようでした。

『ミスト』は、ある田舎町に濃い霧と謎のモンスターたちが出現し、地域のホームセンターに籠城せざるを得なくなった人々がパニックを起こすという映画であり、常日頃よりインテリから馬鹿にされていると感じてきたキリスト教原理主義者のおばちゃんが、不安な大衆心理に付け込んで都会帰りの主人公や地元のインテリに対してとんでもない嫌がらせをするという胸の悪くなる話でしたが、日本という国ぐるみでほぼ同じことが起こっているのだから呆れるやら怖いやらです。

中国地方の私の実家の情報によると、地元の感染者は引越しを余儀なくされたそうです。新型コロナを深刻な感染症と認識するのであれば、その感染者に対して社会はいたわりを持つべきなのに、なぜ不幸に見舞われた人々に鞭打つようなことができるのでしょうか。

身の回りの安全のためなら他人はどうなってもいい

そして社会の分裂はそれだけに留まりません。

感染初期にはパチンコ店が全国民から目の敵にされ、その次は歓楽街でした。しかし冷静になって考えれば客が黙って台に向かうパチンコ店は他の業種よりも感染リスクは低いはずだし、コロナで死んだキャバ嬢やホストの話など聞いたことがありません。

実際に社会として対応すべきリスクがそこにあるのかどうかも考えもせず、何やら怪しそうなところを見つけてみんなで袋叩きにする。ここ一年、日本社会ではこうしたことが横行してきました。

私はパチンコ店やキャバクラに対して思うところはあるものの、感染症対策という大義名分の元で彼らをイジメることにはまったく同意できないし、その産業で生きる人々から食い扶持を奪うことに何の躊躇もない大衆の姿には恐怖を覚えます。

その昔『マレーナ』(2000年)という映画があって、それは第二次世界大戦中のイタリアで高級軍人のパートナーになって人並み以上の生活をしていた女性が、敗戦後に嫉妬に狂った市民からのリンチを受けるという内容でしたが、コロナ下での特定業種攻撃にはそれと似たものを感じました。

冬になるとこの風潮はさらに拡大し、瀕死の状態にある観光業を支えるためのGoToトラベルキャンペーンは打ち切られ、普通の飲食店にも行くなという異常な状況となりました。これらの産業に従事する人々がどうなるのかなんてことは考えもせず、またしても大衆は「身の回りの安全」に走ったのです。

「いやいや飲食店は6万円の日当を受け取ってるだろ、それで平常営業以上の利益が出ている店もあると聞いてるぞ」という反論もあるかもしれませんが、そう言う人たちは商売というものを分かっていません。

補償金で一時的に食いつなぐことはできても、一度離れた客足が戻ってくるかどうか分からないという不安までを払しょくするにはまったく足らない金額です。

今はギリギリ生きられても、いざ緊急事態宣言があけて補償金がなくなった後にはどうなるのか。過度に冷え込んだ消費マインド、外出すること、楽しむことが害悪であるかのような社会風土がある日突然元に戻るなんてことはなく、将来に渡って経営が苦しいことは間違いないわけです。

「社会全体が安全に生きるためには仕方のない犠牲だ」と言われる人もいるかもしれません。ならば特定業種の人々のみに経済損失を負わせるべきではないので、所得税の増税や年金支給額の削減をして全員で痛みを共有し、富の再分配によって不利益を被る業界への継続的な補償金とすべきではないでしょうか?

しかし残念なことに、感染症対策のために自分の取り分を減らしてもいいと名乗り出る殊勝な国民はいません。「感染症対策だ」「公衆衛生だ」「みんなのためだ」と言いながら、自分達がその負担を分かち合う気はない。それは、自分以外の誰かが傷つくことで成り立っている安全にタダ乗りする行為に過ぎません。

「いやいや、私だって感染症対策を頑張っている」と仰るかもしれません。しかし一般市民レベルの感染症対策なんて、マスクを着けて外出する、こまめに手洗いする、「そういや最近遊びに出かけてないな」くらいですよね。

経済的に生きるか死ぬかの瀬戸際で戦ってる人達の前でそれを主張できますか?

テレビという洗脳装置

話を私たち家族と実家の関係に戻します。

中国地方の私の実家はというと、こちらも帰省できない状況が続いています。ただし奥さんのご実家とは随分と事情が違っていて、世間の目が怖いからではなく、私の父が自分の安全を考えて「コロナが怖いから東京から来ないでくれ」と言っているのです。

これを言われた時、私は驚きました。東京都は汚染地域ではないし、都民の中で感染したことのある人間の割合なんて微々たるものです。

東京を遠い外国のような場所として捉えている田舎のご老人ならともかく、息子が長年にわたって東京で暮らしており、東京という地を身近に感じているはずのうちの父までが「東京怖い」になっていることはかなり意外でした。

で、母に事情を聞くと、定年後は無職で家にいる父は朝から晩までテレビを見ており、テレビではコロナの情報のみがセンセーショナルに報道されることから、すっかり仕上がっているとのことでした。

今回のコロナ禍ではテレビは害悪を生む悪しき洗脳装置と化しています。

毎日毎日悪化している指標ばかりを何時間にもわたって取り上げる。さすがに私は朝昼のワイドショーを見る機会はあまりないのですが、Yahoo!ニュースで記事になっているものを見るだけでも過剰報道であることは分かるし、たまの休みにテレビを見るとあまりに過剰な取り上げ方に驚きます。

で、連日これだけの時間を割いているのであれば多面的な考察をすればいいのに、感染者数が増えた減った、減ってもまだ安心できないみたいな情報ばかり。そこに芸能人が感染したとか、後遺症が出てる人間がいるとかいう定性情報をトッピングして危機感を煽るというわけです。

よくよく考えてみれば、感染症対策で一番大事な指標は死者数であり、仮に感染者数が増えていても死人が増えていないのであれば、それは弱毒ウィルスでしかないので対策そのものが不要という話にもなってきます。にも関わらず連日取り上げられるのは新規感染者数ばかり。

一番よく動いている数字が新規感染者数だったので番組として盛り上げやすい指標に着目していただけなのかもしれませんが、それで社会全体がどれほどの不安に陥るかということにまでテレビマンたちの関心は向いていないのでしょうか。

いや、自分達の影響力にテレビマンたちは自覚はあったのかもしれません。テレビマン人生でかつて経験したことがないほど社会を動かせたことに快感を覚え、この祭りが終わって欲しくないのではないか。

そんな勘繰りすらしてしまう程、連日の報道は常軌を逸したものでした。

「いやいや、コロナは恐ろしい病気なので過度に怖がらせるくらいでちょうどいいんだ」という意見もあるかもしれません。実際、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメンテーター玉川徹氏は、そう居直る発言をしています。

しかしそれは情報操作の最たるものであり、自由主義国家においてやってはいけない手法です。

百歩譲って、その背後には絶対的な公共心と圧倒的な頭脳を持つ大天才がいて、まとまりのない国民を束ねるための必要悪として情報操作を行っているのであれば、私は甘んじて受け入れます。

しかし現実はその逆で、自分達が言ったことに責任を取るつもりもないマスコミが目先のことだけを考えた報道をして、報道リテラシーの低い人々がそれに踊らされて余計に社会が混乱。パニックに陥った人々を落ち着かせることが政策のうちのかなりのウェイトを占めるようになり、本当に必要な対策は何なのかという本質的な議論からどんどん遠ざかっていく。

日本社会はそんな悪循環に陥っているように見受けます。

欲しがりません勝つまでは

この一連の騒動で思い出されるのが戦前・戦中の報道です。

「いやいや、あのころは報道の自由がなくて新聞社は無理矢理軍部の意向を汲み取った記事を書かされていたんだ。国民は政府や軍部に騙されていたんだ」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、それは日本国民を取り込みたいGHQが作り上げたストーリーです。

日本国民は戦争にノリノリだったし、報道機関は「戦争して米英をぶっ潰してやれ!」とイケイケの記事を書いていました。朝日新聞の記事なんていくらでも残ってるでしょ。あれらがすべて「本当は嫌だったけど、命令されたので仕方なく書きました」なんていうには無理があります。

有名な「欲しがりません勝つまでは」という標語は政府が国民に戦時統制を押し付けたものとして理解されていますが、その正体はというと、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した「大東亜戦争一周年記念」の企画で選ばれたものであり、語呂がいいということで朝日新聞などが好んで使ったことから国民に広く定着したものでした。

あの時代、国民自らがノリノリで自分達の自由を差し出し、その社会風土形成にマスコミが大きな役割を果たしていたのです。

こんなことを言うと右翼だなんて言われるかもしれませんが、私は戦争が二度と起こって欲しくないと思っている平和主義者だからこそ、軍部や政府といった分かりやすい攻撃対象に全責任を押し付けて、マスコミや国民が「私達は被害者でした」と居直る姿勢には違和感を覚えます。そんな姿勢では過去から何も学べません。

で、今回のコロナ禍の動きはあの頃の報道と、その拡散のし方に似ているなぁと思いました。

安倍政権時代より日本政府は一貫して緊急事態宣言などには消極的で、死者数が増えない限りは経済にダメージのある対策はやらないでいいという姿勢でいました。

しかしマスコミが連日の報道で煽り、恐怖に駆られた大衆が感染症対策をしない政府を「後手後手だ」と批判して、大規模な対策をとらせるということをやってきました。そして自分達の自由を政府に差し出し、「自由に出歩けないようにしてくれ」と言って迫るという倒錯した構図が出現しました。

ただしマスコミと大衆は「感染症対策の副作用」までを考慮しているわけではないので、物事の一側面だけを切り取った対策が続々と打ち出されるに至ったというわけです。

本来は、「ここで緊急事態宣言を出さなかった場合の感染リスク」と「ここで緊急事態宣言を出した場合の経済的損失」をぶつけて、どちらがより深刻かを考えて意思決定すべきなのですが、感染症対策が絶対正義という風潮の中でそんな戦略的思考などは吹き飛んでしまったのです。

これは、常識的に考えれば中国とアメリカの両方を相手にして勝てるわけがないにもかかわらず、そんな無茶を押し通して戦争を仕掛けてしまった第二次世界大戦と同じ思考の誤りです。

「いやいや、感染症の専門家だって感染リスクは深刻だと言ってるだろ」という反論もあるかもしれません。

しかし専門家の端くれとして言わせていただくと、専門家というのは思いのほか空気を読む生き物であり、報告を受ける側が何を望んでいるかによって提言内容は変わってきます。

本件では、仮に国民が経済と感染症対策の両立を望んでいるのであれば、安全に対するバーをそれなりに下げた提言をしたはずなのですが、「ゼロリスク」を求める国民に対しては「安全は保障しきれないので、まだ対策し続けるべきではないのか」という提言となります。

結局、専門家の提言も政府の意思決定も「国民が何を望んでいるのか」に影響されるものであり、良くも悪くもそれが民主主義国家なのです。

そして、その国民の意識を作り上げているものはマスコミだった。しかしマスコミは責任を持った報道をしているとは言い難いので、前述したような実に無責任な社会風潮が形成されるに至ったというわけです。

ゼロリスクという誤った目標設定

ここで気になるのが日本社会全体のリスクの捉え方です。「リスクがある」という言い方をよく耳にするのですが、本来リスクとは「あるかないか」ではなく「高いか低いか」で評価すべきものです。

絶対に起こるとも起こらないとも言いきれない中で、どの程度までを許容するのか。それがリスクマネジメントというものなのですが、日本社会では「リスクがあるからまだダメだ」という論がまかり通っています。これでは何も元に戻すことができません。

「いやいや、人の生死が関わっている問題なのだから、どれだけ可能性が低くても慎重になっておくべきだ」という反論があるかもしれません。実際、SNSなどではそうした情緒論がまかり通っています。

しかしそういうことを言っている人たちだって、今まではリスクを許容しながら生きてきたわけです。歩道を歩けば交通事故に遭う可能性は僅かながらでも存在しているし、今乗っている電車が脱線事故を起こすかもしれない。コロナ以外の病原体にも常に晒されているわけだし、ファストフードを食べ続ければ成人病で死ぬかもしれない。

でもそんなことを言っているとキリがないので、割り切れる範囲内であるかどうかを判断してリスクを許容してきたわけです。なぜ新型コロナに限ってはそれができないのでしょうか。

各種指標の評価についても同じくです。私は経営のアドバイザリーなどをすることもあるのですが、ある経営指標が悪化して動揺される経営者様に対しては、「この悪化は許容範囲内のものですか?それとも対応しないとまずいものですか?」とお聞きします。

物事を動かす際に数字が上がったり下がったりするのはある意味で当然のことであり、その当然の現象に一喜一憂しすぎることは対応策を誤ることに繋がります。

「指標が悪化すること自体は問題ではない。指標が許容範囲を越えて動くことが問題である」。そうした割り切りがあるからこそ、本当に対策が必要な事項に組織のリソースを集中することが可能になるのです。

しかしコロナ禍の日本社会は真の意味での数字の評価をしていません。改善か悪化かの二元論で理解しているので、少しでも数字が悪い方に向かえば天と地がひっくり返ったような大騒ぎ。このため、本当に対処すべき課題を絞り込めていないという事態に陥っているのです。

能書き垂れている私も集団ヒステリーの一部

と、ここまで偉そうな能書きばかりを垂れてきましたが、私だってそんな悪しき社会風潮には一役買っています。それが私の反省点です。

私はコロナに過剰反応する社会風潮に対しての違和感は常に持っていたのですが、それを表明はしてきませんでした。日常生活で顔を合わせる人たちとは「コロナ怖いですねぇ」なんて無難なことを言い合ってきたし、外出する時にはマスクエチケットなるものもしっかりと守っています。

そんな感じで内面を隠していれば、本心でいくら反対していても社会風潮を作り上げる側に回っているのです。コロナを本気で怖がっている人がいて、その人の話に私が同調すれば、そこに二人分の空気が出来上がってしまうのだから。

こうして「コロナは怖い」「コロナ対策こそ最優先」という社会風潮が形成され、感染者差別や特定産業へのしわ寄せといった問題が二の次にされていく。

そうしたことへの違和感や危機感があったからこそ、今回のブログ記事はこうした内容にさせていただきました。さすがに私は実社会で「コロナなんて大した問題じゃない」と大声で言えるほどの度胸はまだないので、個人ブログという小さな場ではありますが、思うところをしっかりと残しておこうと思い立ってのことです。

そういえば先日、面白い経験をしました。

美容院へ行ったとき、「コロナで大変ですか?」と今の日本社会では定番と化している言葉をかけられたのですが、こっちが金払ってる美容師相手ならどう思われても構わないだろうと思って「感染者は減ってるし、死亡者も多くはないし、もうすぐ春だし、いつまでコロナ中心の生活を送ればいいんでしょうね。騒ぎ過ぎじゃないですかね」と言ってみました。

すると美容師は社交辞令で話を合わせている感じでもなく「そうですよね!」と全力で頷き、そこから30分ほどはコロナ恐怖症がいかに馬鹿馬鹿しいかで盛り上がりました。

もし私が「コロナ、心配ですよね」なんていつも通りの返しをしていれば、いつも通りの表面的なコロナ大変談義になって、コロナを怖がっている客と美容師という空気になったはず。

しかしちょっと話してみたことで「あなたも同じことを考えておられましたか」と懐疑的な空気が出来上がったわけです。草の根的ではあるが、社会に充満する同調圧力に小さな反発をすることは大事なのではないかと感じました。

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