【メディア論】日本の国民性から新型コロナ騒動を検証してみる

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雑談
雑談

映画とは全く無関係なコロナ騒動検証シリーズ。相変わらずPVは伸びないものの、読んでくださった方からの反響をいただけるようになったのでうれしい限りです。騒動の事実は残っても社会の空気は現在限りのものなので、リアルタイムでの記録活動を細々と続けていきたいと思います。

なお、本記事のサムネはPCRやマスクを新型コロナを倒せる必殺技だと過信する社会風潮への皮肉として、スペシウム光線を打つ帰ってきたウルトラマンの画像にいたしました。

最近経験したこと

良識ある小児科医の見解

つい最近、小学生の長男が熱を出しました。

子供とはたまに熱を出すものなので個人的にはまったく心配していないのですが、学校や幼稚園は子供の検温表を毎日提出しろと言ってきており、本人だけでなく家族に異変がないかまでを毎日確認されています。

そして家庭内に一人でも発熱者がいれば、発熱した本人はともかく兄弟たちまでが登校や登園を拒否される事態となるので、「発熱者が新型コロナの感染者ではないこと」を証明することが親としては重要になってきます。

そんなわけでかかりつけの小児科へ連れて行ったのですが、繰り返しますがその趣旨は発熱した子供に診察と治療を受けさせることではなく、その子に問題がないことの証明を得てその他の家族の社会生活を守ることにありました。

なので私としてはちゃちゃっとPCR検査をやって陰性というお墨付きが欲しかったのですが、医師は「異常はないと思うし、PCR検査も必要ない」との判断で、私の主目的だったPCR検査は受けさせないと言ってきました。

親御さんから求められてもPCRを断る場合があるとのことで、その理由として以下の3点を挙げられました。

  1. PCR検査の結果は絶対とも言えないので、その結果を過度に扱うべきではない
  2. 発熱によるスクリーニングは医学的に正しくない
  3. 医療費抑制の観点からも、医学的な必要性を感じない場面で検査を乱発すべきではない

まず「1.PCR検査の結果は絶対とも言えないので、その結果を過度に扱うべきではない」。

これは、ウィルスが体内に入って数日は陰性が出る場合もあり、PCR検査で陰性だから大丈夫ということにはならない。PCR検査にも固有の限界があるのだから、その結果を社会的な証明書か何かのように扱うべきではないということでした。

次に「2.発熱によるスクリーニングは医学的に正しくない」。

これは、無症状者が多数を占める感染症である以上、熱があれば感染疑いあり、なければ疑いなしという考え方自体がおかしい。なぜなら、感染者のほとんどは発熱していないのだから。

よって施設の入口などに検温機を置いていることも、学校や幼稚園が体温を確認したがることも新型コロナ対策としては間違っており、うちのクリニックでは発熱者とそうでない人を分けるという管理をしていないとのことでした。無意味だから。

最後に「3.医療費抑制の観点からも、医学的な必要性を感じない場面で検査を乱発すべきではない」

1.の通りPCR検査には固有の限界があり、2.の通り社会全体の感染症対策も正しいとは言えない中で、本当に感染拡大防止に資するとは言えない場面においてもPCR検査をするのは国民医療費の無駄遣いであるとのことでした。

加えて感染経路は家庭内が大半であり、もし教室内に感染者である教師や児童がいたとしても、その他の児童にまで感染が広がったという事例は今のところないのだから、感染疑いのある児童を登校させないという対応策にも疑問があると仰っていました。

私は他人の口からここまで理路整然としたコロナ論を聞いたのは初めてのことだったので感動したし、言われたことの総てが腑に落ちました。

日本医師会の会長が過度に不安を煽るような会見を繰り返して国民を辟易とさせ、医療機関に対する不満も燻ぶっている中ですが、こういう考え方をしているお医者さんもいるんですね。

ただし問題は、現在の社会常識がこのような冷静な考え方とは正反対の方向を向いているということです。

行政機関は論理で動いていない

そもそも私が子供を小児科に連れて行ったのは、発熱した当人の治療ではなく兄弟たちの社会生活を守ることが主目的でした。

そして学校や幼稚園が過剰な対策を求めてきているという事実が存在している以上、医師の言うことが正しくて、そのことに私が納得できたとしても、そんな当事者間のやりとりにはまったく意味がないのです。

感染症対策が難しいのはここであり、正しい情報を持った者が結果に対する自己責任を負いながら独自に判断するという自由がありません。他人にも迷惑をかけることだからと言われ、世間一般が求めることを強要されるのです。

そして世間一般が間違ったことを信じている場合、正論が負けてしまうのです。

PCR検査をやらないでいいと主張する小児科医と、家族に感染疑いがあるのなら兄弟を登校・登園させるなと言ってくる教育機関との間で、私は板挟みとなりました。

ただし教育機関にも悪意はなく、彼らは一行政機関として行政トップの意思に従っているに過ぎません。

ではその行政トップは何を考えているのか。私が住んでいる東京都では小池百合子知事がトップなのですが、彼女は夜間の街の灯を消そうとしたり、スーパーへの買い物自粛までを都民に対して要求してきました。

スーパーが重要な感染源であるというエビデンスの提示もなく、都民生活を大きく左右する感染症対策を何となくの思い込みだけで発信してしまう人物がリーダーなので、当然のことながら行政機関は正しい判断を下していません。

「家庭内感染がほとんどなのだから学校生活は普通でいい」という小児科医の知見は通らず、感染場所としてまったく重要ではない小学校の教室が間違った感染症対策で荒らされていくというわけです。

結局、発熱をしていない兄弟2人は、発熱者の解熱後3日目までは登校・登園禁止ということになりました。

奥さんが専業主婦である我が家においては吸収可能な負担ではあるのですが、夫婦共働きの家、シングルの家では、子供の登校・登園禁止という措置はかなり重い負担となるのではないでしょうか。

それでも感染症対策として有意なことであればみんなで我慢しようとなりますが、一部の医師が疑問を呈している対策のために家庭が巻き込まれることには納得がいきません。

マスクを外すことを嫌がる次男

そうした誤った行政の動きが子供にいかに悪影響を及ぼしているのかを実感する場面が先日ありました。

小学校1年生の次男とショッピングモールに買い物に行った際に、お店の人から飴をもらったので口に入れてあげようとしたところ、「家の外でマスクを外しちゃいけないんだよ」と次男が飴を拒んだのです。

コロナウィルスはちょっとマスクを外しただけで致命傷になるような猛烈な感染力のある病気ではないし、一瞬たりとも外せないほどマスクに防御力があるわけでもありません。飴を口に入れる一瞬くらい、何の問題もないわけです。

しかし、子供はその隙すら恐れている。

親の私が言うのもあれですが、うちの子供は出来が良くありません。部屋を片付けろと言っても片づけないし、毎朝通学時間のギリギリまでダラダラして、怒られながら学校へと出ていきます。

そんな感じで親がいくら言っても覚えない、何も習慣化できない子供なのに、「コロナが怖い」と「マスクを外せない」は頭に刷り込まれているわけです。

ただし、ここで私が「コロナなんて大した病気じゃない」「マスクなんてケースバイケースだ」なんて言い出せば子供は余計に混乱するし、今の日本社会ではマスクを付ける習慣が身についている方がこの子も生活しやすいはずなので、「そうだね、えらいね」と言ってその場は終わらせました。

そうして子供の言い分を否定はしなかったものの、ここまでの反応が出てきたことは意外だったし、どれだけ洗脳が進んでいるんだと怖くなりました。

不合理がまかり通る背景

原発事故騒動との類似点

正論を言っている人たちもいるのに、なぜ非科学的な見解が勝ってしまうのか。この奇妙な現象の原因は何なんだろうと考えてみたところ、前回記事にコメントいただいたまつ太郎様が指摘された原発騒動との類似点がヒントとなりました。

2011年に起こった福島第一原発事故の直後には反原発で国民世論がわいたのですが、あの時も私は釈然としないものを感じていました。その理由は2つ。

まず、社会インフラの議論であるにも関わらずゼロリスクというありえない条件が突きつけられており、反対派の主張には全く現実味がなかったこと。

次に、再生可能エネルギーという代替案の有効性が未検証であるにも関わらず、有力な選択肢として扱われていたことでした。

これを新型コロナ騒動と照らし合わせると、確かに類似しています。

まずゼロコロナ主張は反原発派のゼロリスク主張とほぼ同じです。1憶2千万人が暮らす大きな国において、対象が何であれゼロを目指すのは並大抵のことではないのに、頑張れば到達可能な目標であると思っている人たちが相当数いるのです。

そして対抗策の有効性が未検証である点も同じく。小児科医の指摘通りPCR検査には固有の限界があるし、マスクがウィルスを防ぎきることはできません。またワクチンが効いたり効かなかったりなのは季節性のインフルエンザでみんな知ってるはずなのに、コロナワクチンは絶対に有効だと信じている人たちが大勢います。

過剰な安全意識と一発逆転策の妄信。これが日本社会の特徴なのではと思うようになってきました。そこでそれぞれをさらに掘り下げてみたいと思います。

過剰な安全意識

安全ではない、不健康である、人間を壊すと言われた瞬間に、道理を外れて大騒ぎする。

原発問題もコロナ禍も、怖いものだと認識した瞬間にその対象物の実態は何なのか、他のものと比較してどの程度の脅威なのかという吟味もなくなり、とにかく排除せねばならないものだという方向で世論が振り切れました。

東京都民にとって記憶に新しいところでは、2016年の築地市場移転問題にも似たようなところがありました。

老朽化した築地市場に代わって豊洲新市場に機能を移転させる計画は2001年より粛々と進んでいたのですが、当時都知事選候補だった小池百合子が「豊洲の安全性に問題あり!」と騒いで物議を醸し、マスコミや一部野党がこれに乗っかったものだから大火事に発展したというものでした。

これもまた安全や健康の絡む問題で、日本国民がヒステリーを起こしやすかったわけです。

ただし豊洲の土壌が汚染されているにしても、地べたに直接生鮮食料品を置いたり、その土地の地下水をぶっかけたりするわけではないのだから、商いスペースと土壌の分離さえできていれば問題ないわけです。

で、それを実現するために施設には地下ピットが設けられていたのですが、安全派はこの地下ピットを汚染水を隠すための怪しげな地下空間と呼び、今から振り返ると相当悪質な印象操作を行っていました。

じゃあ元の築地市場はそんなに衛生的だったのかと言うとその逆で、市場と外部を仕切る壁がないので生鮮食料品は排気ガス浴び放題であり、老朽化でそこら中から雨漏りをしていたので屋根を伝った汚い雨水が市場内にも流れ込んでいました。

仮に豊洲市場の衛生状態が100点満点ではないにしても、築地の酷い状況を考えれば早く移転してしまえという結論に至るはずなのに、ヒステリックになった世論は比較して見極めるという当然のことをやりませんでした。

これはコロナ禍にもみられる現象です。「コロナはインフル並ではないのか」「インフルと同程度の対策でいいのではないか」という意見もあるにはあるのですが、マジョリティはインフルエンザと比較すること自体が不謹慎だくらいの勢いです。

比較衡量してこそ病気の実態が理解できるのに、他の病気と比較はするな、ただ恐れろというのはおかしな話です。

そしてその根底にあるのは、安全や健康が関わる問題では絶対を目指さなければならないという強迫観念のようなものです。

しかし現実を考えると絶対の安全性など実現できないわけです。道を歩けば車に衝突される可能性はゼロではないし、乗っている電車や飛行機だって何年に一度かは事故を起こします。

だからと言って何もせずには生きていけないので、みんな割り切りながら社会活動を行っているのに、たまたま関心が向いた対象物に対してはあり得ないほどの安全性を要求してきます。

そして絶対の安全性・ゼロコロナという目標を個人レベルに落とし込むと、外出はおろか宅配だってNGとなります。人との接触には僅かながらでもリスクは残るからです。するとひたすら水道水と庭の草だけを口にして生きていけということになるのですが、そこまでストイックなことをやっている個人はいません。

反原発運動においても、電気を消費する生活からの脱却という個人的な努力をせずして原子力行政への文句だけを言う大衆の姿には辟易とさせられました。

ゼロリスクというありえない目標設定をする一方で、個人として相応の努力をする覚悟があるわけでもない。そのギャップが行政に向いているのが現状だと言えます。そして、一部の衆愚政治家がそのストレスを自分の人気取りに利用して余計に煽っているというのが混乱時の社会全体の構図です。

実現不可能なゴールを求めて大騒ぎする大衆と、ヒステリーが収まるのを歯を食いしばって耐える行政というこの国で繰り返し出現し続けている構図が、本当に無駄に感じられます。

この社会はいつまでこんな不毛なことを繰り返すのだろうかと。

一発逆転策の妄信

で、コロナを過度に恐れる一方で、自粛、マスク、ワクチンを国民全員で徹底することでウィルスに打ち勝つことができるという妙に楽観的な発想も存在しています。

今は苦しいが一発逆転は可能である。自粛やワクチンの効果を過度に信じている人の根底には、そんな一発逆転思想があります。

この一発逆転思想は日本文化においてはかなり根深くて、反原発運動の際の再生可能エネルギーや、太平洋戦争末期の本土決戦論など、日本人は何かしら追い込まれると一発逆転劇の夢を見るところがあります。

サブカルに目を向けても、日本のヒーローたちはライダーキック、スペシウム光線、元気玉など、ほぼ確実に敵を仕留めることのできる必殺技を持っています。

他方でアメコミヒーローたちは得意技こそ持っていても必殺技は持っていないことから、これが日本文化に特有のものであることは理解しておくべきでしょう。

そして本土決戦論が象徴的なのですが、この一発逆転策は苦しい時のトチ狂った幻想であることが多く、たった一つの対抗策が状況を激変させ、本当に一発逆転できた試しなどありません。

日本社会の「良いこと考えた!」は、コンボイ司令官の「私にいい考えがある」に匹敵する失敗フラグだと考えていいと思います。

検証を拒むムラ社会的な空気

このように日本社会全体は不合理な方向に流れがちなのですが、そうは言ってもいつの時代にもまともなことを言っている少数派は存在しています。このコロナ禍においても、前述した医師のような方もいるわけです。

しかしなぜこの少数の価値ある意見が通らないのかと言うと、異論を排除するムラ社会的な空気が濃厚であるためです。

日本人は空気とか一体感を重視するため、ネガポジ両面からの検証作業を「全体の判断に水を差す行為」と捉える傾向があります。

今考えていることが本当に正しいとするならば検証に耐えるはずだろうと思うのですが、検証にかけられること自体を批判や難癖だと捉えるのが日本人なのです。

そして「解決策を疑う=お前は解決する気がないのか!」という脳内変換を行う人も多く、解決策の有効性なんてどうでもいい、みんなで信じてそっち側へ行くんだみたいな不合理の強制がとにかく多い社会であることは実感します。

課題を解決したいからこそ、解決策の有効性を慎重に見極めるという行為が大事であり、良い意味での猜疑心を持つべきだと思うのですが、日本社会は今も昔も「みんなで信じて突撃しよう」なのです。

———2021/5/28追記———

ワクチン接種601万人余 85人死亡 “重大な懸念認められず”(2021年5月26日 NHK)

ワクチンによる死者が増えてきてますね。やはり人体に強烈な影響を与えるワクチンのようなので、コロナでの死亡リスクの低い層にはワクチン接種させないなど、レイヤー化した対策が必要な気がします。

これまでは「命がかかっているのだからコロナは怖がり過ぎるくらいでちょうどいい」でも良かったのかもしれませんが、対抗策を実施することでも相応の犠牲が出るとなれば話は変わってきます。

コロナの死亡リスクを高く評価し過ぎればワクチンの安全バーが下がってしまい、結果、不用意に死者を増やしかねないという局面なので、コロナの死亡リスク、ワクチンの副反応リスクを正しく評価し、比較衡量しなければなりません。

命が大事ならばこそ、マスコミも国民もここは冷静にならなければなりません。

この場に及んでも現実を見ずにワクチンだワクチンだと騒ぎ続けるのは、『アウトブレイク』(1995年)で燃料帰化爆弾を落として住民ごと街を焼き払おうとしたJ・T・ウォルシュと変わりませんよ。

———追記終わり———

騒ぎはいつ収束するのか

欧米社会の動向がカギを握る

このように間違ったことだらけの日本社会の現状ですが、では、いつになったらこの騒ぎは沈静化するのでしょうか。

なおここでいう沈静化とはコロナウィルス自体がなくなることではありません。全世界で1億2000万人以上が感染済ですでに人類社会に深く入り込んだウィルスなのだから、今更なくなることなどありえないからです。

よって、社会的な大騒ぎが収まることをここでは沈静化と言います。

以前より気になっていたのですが、日本人は何かと欧米の動きを気にします。テレビのコメンテーターとして欧米にルーツを持つ方がレギュラーとして座っており、アメリカではこうですよみたいな話を全員で有難く拝聴するという構図はよくあります。

しかし中国ではどうとかインドではどうみたいなことはないわけです。

そしてコロナ騒動においても、武漢で人がバタバタ死んでいるという時点では、これを差し迫った脅威として捉える風潮は日本社会にはありませんでした。騒いでいたのは高須医院長くらいだったと記憶しています。

しかしイタリアやニューヨークで死者が大勢出はじめると「2週間後には日本も地獄!」とテレビは騒ぎ始めました。

地理的にも人種的にも近い近隣諸国の動向にこそ注意を払うべきなのに、遠い欧米社会をサンプルにして状況判断をしている。よくよく考えてみれば何とも不思議な現象です。

その後も、日本での被害状況はさほど深刻ではないという分析に対して「欧米ではこうだから」みたいな反論はよく聞こえてきました。

こう考えると、欧米社会がコロナウィルスへの関心を失えば、日本社会もそれに追従すると思われます。自分たちが大騒ぎしていたことでも喉元過ぎればケロッと忘れる、それもまた日本人の傾向の一つですから。

最後に

日本人の国民性からコロナ騒動を考えてみましたが、考えれば考えるほど自分にもなくはない傾向であることに怖くなりました。本件ではたまたま合理性のある側に立っていますが、トピックが違えば不合理の闇に堕ちる可能性はあるなと。

自分自身を疑うこと、自分が信じているものを疑うことは意識的に習慣化していかなければならないのでしょう。

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コメント

  1. 眞次 より:

    ボクはコロナよりワクチンの方が危険だと思っています。
    周りの人間に聞いても、絶対打たない。私は最後でいい。
    そんな人ばかりなのに、新聞では予約殺到でパンク。
    捏造記事じゃないかと思ったんですが、
    どうもそれだけ洗脳が行き届いているようです。

    アメリカの共和党系の州では路線変更が始まっているようですので、
    それが日本に上陸するまでは、
    ワクチンから逃げ回るしかないように思います。

    • 私の知人の医療関係者も、ワクチン接種を嫌がっていました。
      マスコミの偏った情報はいつも通りなのですが、報道を鵜呑みにする人がここまで多いということには私も驚いています。
      ズルい考え方かもしれませんが、人口の半分以上が打った後で大丈夫そうだと確認できてから、自分も打ってみようかと考えるのが正常な思考回路ではないでしょうか。
      副反応がよく分からない段階での接種なんて壮大な人体実験にわが身を提供しているのと変わらないのに、ワクチン肯定の社会的空気さえあれば我先にでも打ちたくなる人がこれだけ多いというのは怖くなりますね。
      あまりにも風に流され過ぎで、自分の頭で考えられない人がこんなにも多いのかと。

  2. まつ太郎 より:

    前回コメントからもご考察下さりありがとうございました。原発問題との類似点も、私がぼんやりと感じていた違和感を綺麗に整理いただけて、目から鱗でした。

    サムネイルにもされている「一発逆転を妄信する国民性」はとても面白い観点だなと思いました。確かに日本では、必殺技や奇策、ひらめきで一発逆転する物語(主人公像)がウケている気がします。物語としてはカタルシスが得られる展開ですが、現実はそんなに都合よくはいかないですよね。

    日本は地震や台風の災害大国かつ、戦国時代等の内戦続きから世界大戦で敗戦といった歴史を持つ国です。物も仕組みも定期的に強制リセット&再構築されるもの、という価値観が国民性に根づいており、それが行き詰まったときの逆転志向にも繋がっているのでは、と思いました。これは好意的にとれば「スクラップアンドビルドでこの国はのしあがってきた。」というシン・ゴジラの台詞になりますが、逆にいうと、今ある物・仕組みがうまく行かなかったときに根気強く小改善で対応するのは、意外と苦手な国民性なのかも知れませんね。

    ワクチンについては、医療関係者でもなく、働き盛りの年齢の私に話が来るのは当分先なので、それまでにこの逆転策がコンボイ司令官発案だったのか、本当にスペシウム光線だったのかくらい見極められたら、と思っている状況です。長文失礼しました。

    • シン・ゴジラは意識していなかったんですが、確かに「スクラップアンドビルドでこの国はのしあがってきた。」という台詞はありましたね。
      経営のお手伝いをするときにもこの傾向は感じます。うまくいっている時には改善活動などを丁寧にやられる会社様でも、うまくいかなくなると商品を刷新し、新しいマーケットで勝負すべきみたいな意見を突然言い出します。社内に蓄積されたナレッジやリソースが通用しないステージに出ていくのは非効率だと言っても、一か八かのチャレンジというストーリーを魅力的に感じる方が多いようです。
      新型コロナでいえば、ワクチンという新手に対して社会が興奮状態になっているような気がしています。大衆の熱気みたいなものって、たいていが悪い方向に流れていくので私は怖いのですが。

  3. […] 以前の記事で、私は「欧米社会がコロナに関心を失えば、日本社会はそれに追従する」と書きましたが、五輪の無観客のちょうど真裏で大活躍してくれた大谷選手のおかげで、その局面がようやく訪れました。 […]