(1984年 西ドイツ・フランス)
ヴィム・ヴェンダース監督の代表作にして、カンヌ映画祭にて満場一致でのパルムドール受賞をした名作。確かに素晴らしい映画ではあるが、面白くはない。

何がトラヴィスに起こったのか
宝くじに当たると不幸になると言われている。
本作を見終わると、そんなことを思い出した。
主人公はハリー・ディーン・スタントン扮する中年男トラヴィス。
だだっ広い砂漠のど真ん中を、スーツ&赤帽&髭モジャのスタントンが黙々と歩く冒頭が素晴らしい。
この奇妙な出で立ちと、スタントンという捉えどころのない俳優の存在感によって、この男がどこから来て、そしてどこへ向かっているのか、皆目見当もつかないのである。
スタントンは1926年生まれの俳優で、フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス、デヴィッド・リンチといった錚々たる監督たちから重宝された名脇役。我々ボンクラ映画ファンにとっては『エイリアン』(1979年)、『ニューヨーク1997』(1981年)、『レポマン』(1984年)などでお馴染みの顔でもある。
どんなクセつよな作品にでも馴染むという、個性が強いんだか弱いんだかよく分からない唯一無二の存在感を持つ俳優だけに、ミステリアスな役を演じさせると実に活きる。
テキサスの砂漠で行き倒れたトラヴィスは地元のヤブ医者に保護され、実の弟ウォルト(ディーン・ストックウェル)が呼び出される。
ウォルトはLAからマッハで飛んで来て兄を回収するのだが、「飛行機に乗りたくない」とゴネる兄に合わせ、テキサス→LAの長距離を車で移動することになる。
こうして前半はおかしな兄としっかり者の弟が織りなすロードムービーとなるのだが、このパートは後のアカデミー賞作品『レインマン』(1988年)にモロに影響を与えていましたな。
いくら質問をしても要領を得ない回答しか返してこない兄トラヴィスに対して、粘り強い対応を続ける弟ウォルト。
ここでのトラヴィスの振る舞いはまぁありえないんだけど(実際に身内にやられるとキレると思う)、これまたスタントンの超然とした個性によって何とか見られるものになっている。やはり凄い役者である。
ようやっと到着したLAのウォルト宅には、金髪美少年の姿が。
彼の名はハンター君(8歳)。4年前に失踪したトラヴィスの実子であり、その後実母ジェーンからも置き去りにされ、ウォルト夫妻に引き取られていたのだった。
父の失踪時4歳だったハンター君は、トラヴィスが父親であるという実感を持てないのであるが、底抜けの善人であるウォルト夫妻は一家離散前のホームムービーを見せるなどして、二人の距離を縮めることに成功する。
そうして打ち解けたトラヴィスとハンターが母親探しの旅に出かけるのが後半パート。こちらは我らがスタローンの『オーバー・ザ・トップ』(1987年)に影響を与えているような気がした。
距離が縮まったかに見えたトラヴィスとハンターだが、その会話はトランシーバー越しに行われるため2人の間の微妙な距離感も見えてくる。これがクライマックスに向けての伏線の一つになっているのだから、小道具の使い方も見事である。
ハンター君役のハンター・カーソンは本作の共同脚本家L・M・キット・カーソンの息子であり、これが彼のスクリーンデビュー作だった。母は『エアポート75』(1975年)でチャールトン・ヘストンの相手役を演じたカレン・ブラックで、母に付き添われて演技することに同意したという。
※以降の感想はネタバレ全開で書かせていただくので、未見の方は鑑賞後に読まれることをお勧めします。
毎月ハンターへの仕送りがなされている銀行前で張っていた二人は、ついに母ジェーンを発見する。生活苦ゆえか、ジェーンは風俗嬢になっていた。
いったん頭を冷やしにホテルに戻ったトラヴィスは、翌日覚悟を決めて彼女が勤務するのぞき部屋を再訪する。ここからが本作のクライマックスである。
マジックミラー越しになされる元夫婦の会話。
二人は硝子のすぐ向こう側にいる相手に向かって言葉を発するのだが、目の前に映っているのは自分の顔。これは夫婦の会話であると同時に、心の奥底に葬っていた4年前の出来事を自問自答するくだりでもあるのだ。
鏡越しの対話というアイデアは後の『フェイス/オフ』(1997年)に影響を与えたのではないか。
後世への影響は名作の条件の一つだと思うが、多くの作品に影響を与えている本作は、紛れもない名作と言えるだろう。
ジェーンに扮するは美人女優として名をはせたナスターシャ・キンスキー(通称ナタキン)。
彼女は13歳の時にヴィム・ヴェンダース監督の『まわり道』(1975年)でデビューし、本作は9年ぶりのヴェンダース作品だったが、彼女もまた作品の完成度に大きく貢献している。
撮影当時22歳だった超絶美人ナタキンと、お世辞にもイケオジとは言えない57歳のスタントンではまったく釣り合っていない。誰もが「なぜこいつらが夫婦だったんだ」と思うところだが、その違和感こそが4年前の悲劇の核心だった。
トラヴィスはジェーンを深く深く愛していたのだが、すぐさまそれは猛烈な束縛へと転じていった。
自分の実力ではありえないほどの若くて美人をゲットしてしまったがゆえに、愛するジェーンをいつか失うのではないかという不安に四六時中憑り付かれるようになったのだ。
その愛の深さと執着がすべてを壊し、一家離散へとつながった。それこそが4年前におこった悲劇の正体である。
ここでいきなり話を戻すが、「宝くじに当たると不幸になる」という感想を持ったのは、まさにこのくだりからだ。
ふつうのおっさんが、親子ほども年の離れた美女(出会った頃は美少女か)をゲットする確率は宝くじの高額当選並みだが、男は身の丈に合わぬ成果物を前にして完全に自分を見失い、幸運を不幸に変えてしまったのだ。
そしてここでナタキンというキャスティングも生きてくる。
映画好きならご存じの通り、当時の彼女は名うてのおじさんキラーであり、『テス』(1979年)のロマン・ポランスキー監督や、『キャット・ピープル』(1982年)のポール・シュレイダー監督らとの関係を持っていた。
特にポール・シュレイダーの彼女への入れ込みようは尋常なものではなく、『キャット・ピープル』撮影終了後に本気でプロポーズしようとしていた。
しかし当のナタキンは「出演する映画の監督とはいつも寝るんだけど・・・」程度の認識で、交際しているという感覚は持っていなかったらしい。
本人にその気はないにも関わらず、いい年の男を骨抜きにしてしまう魔性の女、それこそが当時のナタキンであり、本作におけるジェーン役にはうってつけだったと言える。
そういえば、ポール・シュレイダーの代表作『タクシードライバー』(1976年)の主人公の名前はトラヴィスであり、本作の主人公の名前と紐づけられなくもない。
閑話休題
4年間の放浪は、大事なジェーンを失い何もかもを捨てたくなったトラヴィスの心の空虚さを示しているが、そうした放浪生活を経てもなお、トラヴィスはジェーンを狂おしいほど愛しているという自分の気持ちに気付く。
ここで家族が一緒になっては同じことの繰り返しだ。
愛するがゆえに、愛する者の元を去らなければならないという男の覚悟。
現代劇ではあるが、テキサスという舞台設定と時代性を纏わないハリー・ディー・スタントンという俳優の個性によって、主人公が街を去る西部劇のような印象も受ける。
当のスタントンは、せっかく再会した家族の元を離れるという結末に大反対だったらしいが。
愛というものの一側面を的確に切り取った鋭さがあり、それゆえに世間的な高評価にもうなづける。
素晴らしいけど面白くはない
というわけで、テーマの捉え方も表現も素晴らしい、これぞ名作といえる作品ではあるが、欠点は面白くないということだ。
147分もの長尺に渡って、表面上は大した動きのないドラマが、それはそれはゆっくりと展開されていく。
私は眠気との戦いに必死で、自宅で見る時には立ったり座ったりを繰り返しつつ、何とか最後まで完走した。
もしも映画館で観たら寝ていたんではなかろうか。
またリアリティよりも寓意を押し出した作風ゆえ、理詰めで考える人には厳しい内容かもしれない。
最大の問題は、一度育児放棄をしたジェーンの元に子供を戻して解決といえるのかということ。
ジェーンが子育てをしつつ、経済面では弟夫婦を頼ろうとしているのであれば、まぁゲスな話だなと思う。


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