(1997年 アメリカ)
中国共産党のチベット侵攻をテーマにしたハリウッド映画であり、珍しい題材だけあって見応えがありました。また、歴史的・政治的意義以外の部分でも見るべきドラマが構築されており、なかなかよく出来た映画だと思います。
あらすじ
1939年、オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラー(ブラッド・ピット)はヒマラヤ山脈登頂へと旅立ったが、遠征中に第二次世界大戦が勃発し、滞在場所のイギリス領インドにおいて敵国民となってしまったことから収容所に抑留された。その後仲間と共に脱走したハインリヒは友好国である日本を目指す過程でチベットへと行きつき、その首都リマで生活することとなる。
スタッフ・キャスト
監督はジャン・ジャック・アノー
1943年フランス出身。高等映画学院を卒業後の1960年代後半から1970年代にかけてコマーシャルを多く手掛け、第一次世界大戦時のアフリカを描いた」『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(1976年)で映画監督デビュー。
このデビュー作がいきなりアカデミー外国語映画賞を受賞したことから、一躍注目の監督となりました。
その後、『人類創生』(1981年)ではアカデミーメイクアップ賞を受賞し、『薔薇の名前』(1986年)ではショーン・コネリーを起用、『愛人/ラマン』(1992年)はアカデミー撮影賞にノミネートと、監督作は軒並み注目作となりました。
本作後にはジュード・ロウ主演の戦争ドラマ『スターリングラード』(2001年)を監督しています。
主演はブラッド・ピット
1963年オクラホマ州出身。言わずと知れた大スター。
リドリー・スコット監督の『テルマ&ルイーズ』(1991年)での詐欺師役でブレイクし、以降はタランティーノやデヴィッド・フィンチャーといった名監督とよく仕事をするようになりました。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(2019年)でアカデミー助演男優賞受賞。
また映画プロデューサーとしても『ディパーテッド』(2006年)、『それでも夜は明ける』(2014年)、『ムーンライト』(2016年)という三本のアカデミー作品賞受賞作を製作している凄腕です。
共演はデヴィッド・シューリス
1963年イングランド出身。ギルドホール音楽演劇学校卒業後の1985年にテレビでの仕事を開始し、1987年からは映画への出演を開始。『ネイキッド 快感に満ちた苦痛』(1993年)でカンヌ国際映画祭男優賞を受賞したことがきっかけで国際的な知名度を獲得し、90年代半ばあたりからハリウッドでの仕事をするようになりました。
ただし当初は『ドラゴンハート』(1996年)や『D.N.A./ドクター・モローの島』(1996年)など決め手に欠けるものばかりだったし、『ダイ・ハード3』(1995年)の悪役サイモン・グルーバー役のオファーは断りました。
一般的な知名度を獲得したのは『ハリー・ポッター』シリーズのリーマス・ルーピン役からでした。
作品解説
チベットってどんな国?
本作で描かれるのは現在に至るチベット問題の直接の発端となった中国のチベット侵攻なのですが、そもそもチベットってどんな国なのでしょう。
イメージ的には中央アジアの小国という感じなのですが、以前、四川料理のチェーン店陳麻家で食事をした時、店内にあった中国の地図を見て驚きました。チベット、滅茶苦茶デカいじゃないかと。
チベットを含めるか含めないかで中国の国土面積がまったく変わるほどのインパクトであり、自分はあまりにチベットを知らなかったことに愕然としました。陳麻家の地図ではないのですが、模式的な地図で見るとこんな感じですね。
チベットの民族意識が形成されたのは7世紀頃でした。高校時代に世界史を選択されていた方ならご存知の通りこの頃のチベット人は戦争にめっぽう強く、幾度となく唐に攻め入っていました。
それと同時にインドと中国双方の文化の影響を受けてチベット仏教が発達し、仏教国となりました。
13世紀にモンゴル帝国が猛威を振るった時にはチベットもその勢力下に入ったのですが、フビライ・ハンがチベット仏教を篤く保護したことから一般的な宗主関係とはならず、寺(チベット)と檀家(モンゴル)のような関係性となりました。
モンゴル帝国衰退後の中国王朝との関わり合いも似たようなものであり、政治や外交面で中国からの影響を受けつつも、それは決して支配関係ということではなく、思想・文化的にはチベットの方が優位な立場にありました。
1912年に清朝が倒れるとチベットは国際社会に対して独立を宣言し、イギリスなどからの承認を受けました。清朝後の中国で成立した中華民国政府はチベットを自国領土であると主張したのですが、イギリスが仲介することで独立性は維持されました。
チベット侵攻とは
こうした関係性が大きく崩れたのが1949年で、国共内戦に勝利した中国共産党はチベットへの駐留を主張し始め、1950年10月にチベットへの侵攻を開始しました。
チベットは国際社会に向けて窮状を訴えたものの、当時の国際連合は朝鮮戦争への対応で手いっぱいでした。裏を返せば、中国共産党はそのタイミングを狙ってチベットへの侵攻を仕掛けたと言えます。
1951年、映画ではB・D・ウォンが演じたンガプー・ンガワン・ジクメがチベット代表として中国共産党との交渉に臨んだのですが、ジクメには完全に中国政府の手が回っており、ここでチベットに対する中国政府の主権が明言されました。
以降、チベットは中国の支配下に入り、国土には人民解放軍が駐留することとなったのですが、中国政府は宗教を排撃し、遊牧民の土地を奪い、漢民族の入植を進めたことからチベット人は反乱を起こし、国土は動乱状態となりました。
1959年、ダライ・ラマ14世はチベットを脱出し、友好国であるインドでチベット亡命政府を立てて現在に至ります。
主人公ハインリヒ・ハラーとは
本作はハインリヒ・ハラー著『チベットの七年』(1952年)を原作としており、その内容はハラー自身の体験をまとめたノンフィクションでした。映画ではブラッド・ピットがハラーを演じています。
ハインリヒ・ハラーは1912年オーストリア出身の登山家であり、1938年にアイガー北壁の初登頂に成功した4人のメンバーのうちの一人でした。
1939年にヒマラヤ登頂に挑んだ後、イギリス領インド帝国内のカラチで帰国のための船を待っていたところ、第二次世界大戦が勃発したために敵対国の国民として拘束され収容所に抑留。
1944年4月、ハラーは仲間達と共に脱走に成功してチベットへと逃れました。
1946年にチベットの首都ラサに入り、1948年からはチベット政府のために翻訳等の仕事をするようになり、1949年、映画館を建設したいという少年期のダライ・ラマ14世からの要望で謁見をしたことから二人の交流がスタート。
チベット侵攻後の1952年にオーストリアに帰国し、『チベットの七年』(1952年)を出版してチベットの窮状を全世界に訴えました。
2006年にハラーが逝去した際には、ダライ・ラマ14世はハラー夫人に宛てて哀悼の意を表しました。
興行的には不調だった
ソニー・ピクチャーズの元重役ジョン・ピーターズにより1995年に設立された新興の映画製作会社マンダレイ・ピクチャーズが、7000万ドルをかけて本作を製作。
1997年10月に全米公開されたのですが、初登場2位(その週の1位はモーガン・フリーマン主演の『コレクター』)、公開5週目にはトップ10圏外に押し出され、全米トータルグロスは3795万ドルという期待外れの結果に終わりました。
世界マーケットではやや持ち直したものの、それでもトータルの興行成績は1億3145万ドルであり、劇場の取り分やプロモーション費用を考えると製作費は回収できていないものと思われます。
感想
定番ながらよくできた成長譚
基本的に本作は主人公ハインリヒ・ハラー(ブラッド・ピット)の成長譚として構成されています。
初登場時点のハインリヒは傲慢な男です。妊娠中の妻に辛くあたり、もうすぐ第一子を出産予定なのにヒマラヤ長期遠征へと出かけていきます。
有名人なので表面こそ取り繕っているものの、内心ではすべての人を見下し、登山の際にもチームワークの欠片も示しません。とにかく嫌な野郎なのです。
それが強制収容所に入れられたことで自分の内面と向き合い、あれほど雑に扱っていたが、実は妻を愛していたということに気付きます。
しかし気が付いた時には時すでに遅しというのは世の常で、心を入れ替えて手紙を書いたものの妻からは「再婚します」の返事。人生の絶頂期に人を雑に扱ってしまったことのツケは、一番苦しい時に払わされるのです。
収容所を脱走後には同じ登山隊に居たペーター・アウフシュナイター(デヴィッド・シューリス)と行動を共にすることとなり、現地人との物々交換の場において、ハインリヒは「自分は貴重品を持っていない」と言ってペーターにのみ腕時計を供出させます。
その後、ハインリヒは腕時計を隠し持っていたことが発覚してペーターからキレられ、自分があまりにも他人の気持ちを顧みてこなかったことを反省します。
ラサ到着後にはペーターと二人で仕立て屋のペマ・ラキ(ラクパ・ツァムチョエ)という女性に夢中になり、足しげく彼女の元に通いデートに誘います。
そんな中、3人でアイススケートをした際のハインリヒとペーターの行為が対照的だったのですが、スケートをしたことのないペマ・ラキに対して「こう滑るんだよ」と言って自分のスケートの腕前を見せつけるハインリヒに対し、彼女に寄り添い、滑り方を教えるペーター。ハインリヒにあるのは自分だけであり、結局ペマ・ラキはペーターとの交際を選択しました。
こうしたイベントの連続でハインリヒは己の行動を悔い改め、次第に理想的な人格へと近付いていきます。ドラマとしては月並みではあるのですが、演技や演出が良いおかげでしっかりと楽しむことができました。
ブラッド・ピットのイケメンぶりはもはや見せ場
全体的に主人公ハインリヒの成長譚であるため、必然的にブラッド・ピットは出づっぱり状態となるのですが、この頃のブラピは美しさの絶頂にいた上に、ゲルマン系になりきるために髪をプラチナブロンドに染めており、そのイケメンぶりは異常値のレベルに達しています。
傲慢なブラピ、命がけの登山をするブラピ、孤立するブラピ、地元女性に惚れるブラピ、仏様のような穏やかな人格になるブラピと、多面的な表情を覗かせる芸達者ぶりを披露するのですが、いちいちイケメンなので男の私から見ても惚れ惚れとさせられました。
本作において、ブラピのイケメンぶりは見せ場の一つとなっています。
圧巻の映像美
そのブラピと並ぶ見せ場が、広大な大自然を捉えた圧巻の映像美です。
撮影監督はジャン・ジャック・アノー監督作品の常連であり、『愛人/ラマン』(1992年)でアカデミー賞にノミネートされたロベール・フレース。フレースは大自然の美しさ・過酷さをいかんなくフィルム上に収めています。
本作の撮影は主にアルゼンチンで行われたのですが、撮影クルーが極秘裏にチベットでの撮影も行っており、公開時に発覚すると大問題となりました。
胸が痛むチベット侵攻
ハインリヒはチベットでの7年間を有意義に過ごし、帰国できるのにあえてせずにチベット滞在を謳歌しています。
そんなゆったりとした日々に終止符を打ったのが中国によるチベット侵攻でした。
それまでもチベット領内に中国人はいたのですが(ヴィクター・ウォンが演じていた老人など)、彼らはチベット人と仲良くやっており、そこには何らの問題もありませんでした。
しかし1949年以降に中国共産党より送り込まれてくる中国人は、チベット文化への敬意を抱かず、領土的野心剥き出しの態度を隠そうともしません。
どう見ても折り合えない相手。これに対してチベット政府の意見は二極分化します。
老人たちは中国共産党に対する徹底抗戦を訴え、錆びついた武器を引っ張り出してきて兵士の訓練を始めるのですが、若い官僚ンガプー・ンガワン・ジクメ(B・D・ウォン)は中国に飲まれる覚悟をした上でのソフトランディングの道を模索します。
歴史的にはジクメはチベットの裏切り者にように扱われており、実際、1952年以降には中国の手先の様に振る舞い、晩年はチベットに帰国せず北京で生涯を終えたのですが、チベット侵攻前夜においては彼なりにチベットを思っての行動だったように見受けます。
どう考えても勝てない戦いに打って出るよりも、武器庫を焼き払い、宥和の意思を示して、早いうちに緊張を解くことがチベットにとっても最善ではないのか。彼はそう考えていたのかもしれません。
作品においても、ジクメはある時点まで人格者として描かれているし、チベットを裏切った後にも苦渋の決断をしたことが伺えるような演出となっています。
しかしジクメの見立ては甘かったのです。こちらが誠意を示せばあちらも応えてくれるという相手ではありませんでした。
作品中の描写はかなり抑えられているのですが、現実のチベットで起こったことには筆舌に尽くしがたいものがあり、あの時、チベット人は決して武器を捨ててはならなかったのです。
本作にはこうした歴史の重さや、善悪二元論では収まりきらない国家の意思決定の困難さも描かれており、重厚な歴史ものとしての意義もある作品となっています。
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