(2022年 アメリカ)
映画プロデューサー ハーヴェイ・ワインスタインによる性加害を、実に入念な取材から世に出し、#MeToo運動の大きなきっかけとなったニューヨークタイムズ記者たちの物語。興味深い題材で見る価値は確実にあるけど、真面目な作り過ぎてドラマとしての起伏に欠けるのが欠点。
感想
アメリカジャーナリズムのド根性
Amazonプライムで鑑賞。
無料配信になってからしばらくは見てこなかったんだけど、最近世を賑わせている週刊文春vs松本人志の性加害問題で、スキャンダル報道の在り方が個人的に気になるトピックになってきたので、ようやっとの鑑賞となった。
松本人志の件との関連は後で触れるとして、いったんは作品の感想から。
映画好きなら誰もが知る大プロデューサー ハーヴェイ・ワインスタインが長年にわたって犯し続けてきた性暴力事件をNYタイムズの女性記者2人が暴いた実話がベース。
監督は西ドイツ出身の女優兼映画監督で、ベルリン映画祭銀熊賞(=女優賞)受賞経験を持つマリア・シュラーダー。製作はブラッド・ピット率いるプランBと、ミーガン・エリソンが代表を務めるアンナプルナ・ピクチャーズという「The良心」って感じのメンツが、それはそれは丁寧に映画化している。
率直に申し上げると、丁寧すぎてドラマとしての抑揚がなく、直感的に面白いと感じる作品ではない。
このサイトでよく言う「面白くないことを除くと良い映画」というやつである。
映画として面白くするには、「どうすれば『記事を出す』というゴールにまで辿り着けるのか」、「その筋道を邪魔するものは一体何なのか」、「主人公たちはどういう作戦で障害物を回避するのか」という流れを、事前に観客の頭の中に作り上げることが常套手段となる。
そうすることで観客はハラハラしながらドラマに集中することができるんだけれど、本作にはそういう組み立てがない。
ま、実話ベースで「なんやかんやで主人公達は乗り越えた」という結論は分かっているので、そうしたスリルはあえて追わない方針での脚色にしたんだろうけど。
では本作でスポットを当てられているものって一体何なのというと、まずは彼女たちがとった取材プロセス。とにかく彼女らの動きが丁寧に描写される。
そうして「ここまで丁寧に口説いているのになかなか名乗り出てくれない被害者たち」という構図から、性被害者が声を上げづらい社会構造というものを解き明かしていく。
序盤にて、主人公の一人 NYタイムズ記者ジョディ(ゾーイ・カザン)は、女優のローズ・マッゴーワンが告発本を書こうとしていることを知る。彼女は大物映画プロデューサー ハーヴェイ・ワインスタインからの酷いセクハラを受けたらしい。
マッゴーワンはタランティーノ監督の『グラインドハウス』(2007年)等でお馴染みの世界的有名女優で、普通に考えれば発言力はそれなりにある人だと思われるんだけど、それでも彼女は「私の告発なんてまともに取り合ってもらえない」と愚痴をこぼす。
この手の告発をすると「売名じゃないの?」とか「ワインスタイン製作映画でちゃんと役をもらえてるんだし取引は成立してたんじゃないの?」とか、まぁ面倒くさい憶測を生んでしまうので、トータルで見ると泣き寝入りする方が得策なのである。
兎にも角にも関心を持ったジョディは、同僚記者のミーガン(キャリー・マリガン)と共に取材を開始し、キャスティング候補の女優から自社従業員までハーヴェイ・ワインスタインは手を出しまくっていたという事実を掴む。
ただしローズ・マッゴーワンですら躊躇するほどの話なので、元従業員クラスがジョディらの話に乗るはずもなく、「静かに暮らしたいので放っといてくださいませんかね」という態度をとる。
そこでジョディとミーガンは、ワインスタインによるセクハラ現場でもある映画スタジオ ミラマックス社の元CFO(最高財務責任者)や元顧問弁護士にまで取材を申し込みに行く。
彼らはワインスタインの起こしたトラブルの揉み消しをしていたんだけど、在任中には「社長による派手な女遊びの後始末」程度の認識であり、実は犯罪行為が行われていたとは思っていなかった。
ジョディとミーガンの話を聞くうちに、「それはヤバイ」「俺らも騙されていた」ということに気づいて彼女らに協力するようになり、直接的な被害者以外の証言を得たことで第三者から見た信ぴょう性も上がり、被害者たちも名乗り出る覚悟を決める。
これがザクっとした本編の内容なんだけど、すごいのはワインスタイン側の元ブレーンにまで取材を申し込むという記者の活動量、ぐうの音も出ないレベルにまで真実を追求するという姿勢で、これがアメリカのジャーナリズムの凄さなのだなと思う。
あとは実名報道へのこだわり。
欧米には「匿名報道」に該当する言葉がないほど、どこの誰が言ってることなのかが重視される。それって社会における検証可能性の問題なのだろうけど、報道する側が安易な方向に走らない・走れないということが、作品全体のピリっとした緊張感にも繋がっていた。
文春砲は無責任
一方日本の松本人志の報道だけど(ようやく冒頭のフリに戻ってきた)、私には文春の取材の粗さが気になった。
もちろん天下のNYタイムズvs日本のゴシップ誌なので比較対象にすることすら躊躇されるけど、文春記事をテレビやネットニュースが後追いし、真実として受け取る読者層が相当数いるという社会的影響力を考えると、文春にも報道機関としての責任はそこそこあると考えている。
文春砲と呼ばれるほどのインパクトある記事を書いていることには、文春編集部自身も強い自負を持っているだろうけど、いざ誤報をしたときに「我々はしょせんゴシップ誌ですから」と逃げるのはご都合主義だろう。
では報道機関の責任って一体何なんだろうと言うと、世に出していく情報へのこだわりであり、間違った情報は出さないというプロ意識の高さではないかと思う。
ここで松本人志の記事だけど、顔も名前も出せない告発者の証言を鵜呑みにし、紙面上に事実の再現をするのではなく、読者の怒りを誘うような煽情的な文章で全体を構築している。
「恐怖の上納システム」とかおどろおどろしい造語が並んでいるが、要は後輩が先輩のために合コンを設定しただけ。それが罪なら世の男性の多くは罪人で、文春記者自身にも心当たりないとは言わせない。ちょっとこれは酷いんじゃないか。
文春は「丁寧な取材をした」と主張しているけど、告発者がどこの誰かも分からない、文春がどんな取材をしたのかも分からないのでは第三者による検証のしようがないし、「もしも誤報であれば腹を切る」という責任論も示していないので、さすがにこれでは信用のしようがない。
もちろん、松本のせいで苦しんだ女性がいれば相応の裁きが必要だけど、こういう書き方だと真実に迫れない。決め手がない中で、世論は「松本を信じる」か「文春を信じるか」に二極分化するだけである。
果たしてこれが正義の鉄槌なのだろうか、社会をより良くするための報道なのだろうか。
あと、「…と文春が書いております」と何の責任も負いたくないという姿勢だけが見え隠れする状態で報道を垂れ流すテレビやネットニュースもどうかと思う。
第4弾記事ではついに実名を出した女性が出てきたのだから取材に行けるだろう。報道機関なのになぜ自分たちでインタビューを申し込み、追跡取材で事実関係を確認しようとしないのだろう。
まぁどう転ぼうが責任を取りたくないだけなんだろうけど、そんな甘ったれた姿勢で剣よりも強いペンをふるうのはどうかと思う。
映画では、記者による記名記事が原則のアメリカ社会において、ミーガンが嫌がらせを受ける描写がある。取材対象と同じく記者も自分の名誉をかけて戦っており、誤報をすればタダでは済まされないというプレッシャーの中でこそ、良い報道ができるということが分かる。
無記名記事の陰から対象者を寄ってたかって袋叩きにするわが国の状況とは全然違うなぁと、こちらでも落差に愕然とさせられた。
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