最後の誘惑_イエスが山崎邦正化【6点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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古代
古代

(1988年 アメリカ)
「死にたくないよ~」とうじうじ悩み続けるイエスが蝶野ビンタを嫌がる山﨑邦正のようでした。なかなか意表を突く切り口なので面白みはあります。ただし無神論者の私にとってはベースとなる聖書のエピソードが支離滅裂に感じられ、これに忠実な中盤までが厳しかったのが難点でした。

©Universal Pictures

あらすじ

ローマ帝国支配化のイスラエルで、ナザレのイエスは神の声に悩まされていた。その後、神の声を受け入れることにしたイエスの周りには弟子が集まるようになったが、そんな中でも特に強靭な意思を持つユダとの関係が深くなっていく。ある日イエスは、神の意思を全うするために自分はローマ兵に捕まり、死なねばならないので、自分の居場所を密告して欲しいとユダに要求する。

スタッフ

原作は『その男ゾルバ』のニコス・カザンザキス

1883年クレタ島出身のギリシア人。代表作は『その男ゾルバ』(1943年)」で、同作は1965年にアメリカで映画化されてアカデミー賞3部門受賞の評価を獲得しました。

本作の原作『最後の誘惑』(1951年)はカトリック教会より発禁処分を受けるなどの圧力を受けたのですが、他方で彼を評価する声も大きく、1947年と1950年の2度、ノーベル文学賞にノミネートされています。

監督・脚色は『タクシードライバー』のコンビ

上記の原作を脚色したのはポール・シュレイダーで、監督したのはマーティン・スコセッシ。二人は『タクシードライバー』(1976年)と『レイジング・ブル』(1980年)で知られる名コンビであり、かつ二人とも神学を学んだ経験を持っています。シュレイダーはカルヴァン派、スコセッシはカトリックで宗派は違いますが。

感想

すべてが型破りな宗教映画

本作は紀元1年を舞台にし、人類史上最高の有名人イエスを主人公とした時代劇なのですが、時代劇らしさや宗教映画らしさを排除した作りを目指しています。

イエス達はブロンクス訛りで話し、支配階層であるローマ人はお上品な英国訛りで話しているという演出が施されているようです(残念ながら、英語に堪能ではない私にはピンとこなかったのですが…)。ピラト総督役にはグラムロックの先駆者デヴィッド・ボウイですからね。

さらに、音楽を担当したのはプログレッシブ・ロックの大物ピーター・ガブリエル。イエスがエルサレムに入る場面ではおおよそ歴史映画とは思えない曲調を提示し、そのあまりのカッコよさに悶絶しました。

山崎邦正状態のイエス

神の子とは言えイエスは人間でもあるわけです。作品のコンセプトは人間イエスがどうやって自分の運命を受け入れたのかという点にあり、イエスの描写はかなり型破りなものとなっています。

イエスは最終的に自分が惨い死に方をするということを相当前から知っており、序盤より「あ~、死にたくないなぁ」と連呼しています。

冒頭では支配者であるローマ軍のために同胞を磔にする十字架を作っているのですが、その理由は「これだけ最低なことをすれば神は自分を見限って、死という運命を回避できるのではないか」という物凄いものでした。

ローマ軍に差し出される直前には「過去に自分と似た境遇にいたノアやモーセは生き残る道を行けたのに、なぜ私に限って死ぬやつなんですか」と、身も蓋もないことを愚痴り出します。

ここまでくると『笑ってはいけない』で山崎邦正が蝶野ビンタを受けるくだりみたいになってきますね。もはや人間臭いを通り越して文句が多いという。もういい加減受け入れろやと言いそうになってしまいました。

頼りない弟子達

未熟さはイエスを取り巻く弟子たちも同じくで、彼らは修行を積んできた僧侶ではなく、イエスの教えに感銘を受けて付いていくことにした凡人にすぎないために、信じ切るという覚悟ができていません。

1か月に渡ってイエスが砂漠での修行に入った際には、先生が戻ってくる気配が一向にないし、そろそろ解散かなんてことまで言い始めます。

この辺りも従前の聖人像とはかなり違うのですが、新約聖書の記載にもあるイエスがローマ人に捕まった際に弟子達が無関係を装ったこと等との整合性を考えると、これくらいのユルさがちょうどいいような気もします。

男気全開のユダ

そんな素人集団の中で、唯一覚悟を見せてグループの精神的支柱となるのがユダです。

ユダにはイエスを殺すためにファリサイ派より送り込まれた刺客という設定が置かれています。

彼はイスラエルの独立を目指す革命戦士であり、イエスというのはユダヤ人の連帯を阻害する危険分子であると考えてその排除をしようとするのですが、殺害対象として観察するうちに危険分子どころか素晴らしい改革者であることに気付き、イエスの弟子になります。

しかし、当のイエスは聖人としての運命に翻弄される凡人でもあるため、神がかっている時には素晴らしいのだが、素に戻ると迷いや弱さを口にするわけです。

覚悟や根性という点ではイエスを上回っているユダは、彼が弱気になる度に励まし、時に叱責して、あるべき方向へと導いていきます。

そんなユダに対してイエスも全幅の信頼を置き、いよいよ自分が死のステップに入る際には、自分をローマ人に差し出させるという重要な役割をユダに与えます。

最後の誘惑とは何だったのか

と、ここまで書いてきて言うのもアレですが、実は本編の2/3くらいまでは、あまり面白くありません。

複数のエピソードがぶつ切り状態で並び、さながら聖書のダイジェスト版のような状態なのです。聖書に馴染んでいる方々からすれば文字でのみ触れてきた情報がついに実写映像化されたことへの感動があるのかもしれませんが、日本人にとっては前後関係が希薄なエピソードの羅列に過ぎません。

加えて、ある時には「愛だろ、愛」(古っ)と言いながら、別の場面では斧でユダヤ教の寺院をぶっ潰すと叫ぶイエスの言動には一貫性がなく、ドラマに大きな流れのようなものができていませんでした。

そんな中で、ほぼ式次第通りにイエスはローマ兵のリンチに遭い、茨の冠をかぶせられてゴルゴダの丘で磔刑に処せられるのですが、ここから映画は聖書から大きく離れ、独自の解釈へと雪崩れ込んでいき、急激に面白くなっていきます。

苦悶の表情を浮かべるイエスの前に現れる一人の少女。「神はあなたの覚悟を試したかっただけで、本気で死なせたいわけではないのよ」と言ってイエスを十字架から下ろし、元の人生へと帰します。

そこで待っていたのはベタニアのマリアとの間に子を持つ家庭生活という普通の人間としての幸福な人生であり、聖人として生きていた時代がバカらしくなるほど、イエスは現在の生活に満足します。

幸福な人生をまっとうし、年老いて死の床に伏せたある日、かつての弟子達がイエスの元にやってきます。その中でもいまだに闘争をやめていないユダだけは、イエスに対して「お前は逃げた」と激しい言葉をぶつけます。そこで我に返ったイエスは聖人としての義務に目覚めます。

すると場面は再びゴルゴダの処刑場に戻ります。今まで見てきたのはイエスに対して悪魔が見せた幻覚であり、イエスは人としての幸福という最後の誘惑を退けたのです。

このドンデンには私も騙されてしまいました。悪魔的に素晴らしい構成ですね。加えて、人間性と神性の間で揺れるイエスという本作の主題にもピタリと合った展開であり、ただのサプライズではなく、深い意味のある展開でもありました。

この映画は罰当たりなのか?

ただし、このオチは公開当時に大問題となってキリスト教関連団体からの抗議を受け、上映反対運動も起こりました。2019年においても、Netflixがシンガポール政府からの要請で本作の配信を止めたことを公表しており、一部の団体からはいまだに受け入れられていない状態が続いています。

ただし無神論者として一連の論争を眺めていると、そんなに怒ることなんだろうかという気がします。

むしろ原作者も監督も聖書を真剣に読み、イエスを深く理解しようとしたからこそ辿り着いた合理的な物語だったんじゃないかと思います。何も考えず聖書に書いてあることをただ鵜呑みにするよりも、その時のイエスの心境はどうだったのかを想像し、理解・共感しようとする方が、よほど敬虔な信者のあり方ではないでしょうか。

また、イエスを邪心のまったくない純度100%の聖人と考えるよりも、普通の人間と同じような欲望もあれば、人としての幸福を追求したいという願望や、苦痛から逃れたいという本能もある。それでも世のため人のために過酷な運命を受け入れることにした人と考える方が、有難みも増します。

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