ジャンクション_風変りだが核心を突いた人種ドラマ【7点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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社会派
社会派

(1995年 アメリカ)
黒人と白人が入れ替わった社会という珍妙な切り口の作品なのですが、監督が日系人ということもあってどちらにも肩入れしない冷静な視点があって、人種問題を抱える社会の一側面を的確に切り取るような鋭さがありました。

あらすじ

黒人が支配階層で、白人が差別を受けるパラレルワールド。

白人のルイス(ジョン・トラボルタ)は真面目な労働者だが、勤務する工場のオーナーである黒人タッド(ハリー・ベラフォンテ)からのクレームで解雇される。職も住居も家族も失ったルイスは、解雇されていなければ受け取れていた給料を支払えとタッドに迫る。

スタッフ・キャスト

製作は『パルプ・フィクション』のローレンス・ベンダー

1957年NY出身。1985年にアメリカン・フィルム・インスティテュートで働き始め、駆け出しの頃のクエンティン・タランティーノと知り合いになって、『グラインドハウス』(2007年)を除く全作品でプロデューサーを務めました。

その他、マット・デイモンとベン・アフレックがアカデミー脚本賞を受賞した『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)、ブラッド・ピットとジュリア・ロバーツが共演した『ザ・メキシカン』(2001年)などもプロデュースしています。

監督・脚本は日系人デズモンド・ナカノ

1953年生まれ。主に脚本家として活動しており、若い頃のトミー・リー・ジョーンズがスーパーカーを爆走させるアクション『ブラックライダー』(1986年)や、ジェニファー・ジェイソン・リー主演の群像劇『ブルックリン最終出口』(1989年)などを執筆していました。

本作で監督デビュー。2007年には、第二次世界大戦中のアメリカで強制収容キャンプに入れられた日系家族を描いた『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』(2007年)を監督しました。

主演はジョン・トラボルタ

1954年ニュージャージー州出身。70年代後半にアイドル的な人気を博したものの、80年代には凋落。しかし『ミッドナイト・クロス』(1981年)の大ファンであるクエンティン・タランティーノからの指名で出演した『パルプ・フィクション』(1994年)で華麗なる復活を遂げ、『ゲット・ショーティ』(1995年)でゴールデングローブ主演男優賞受賞と、90年代前半は乗りに乗った状態でした。

本作には『パルプ・フィクション』(1994年)を製作したローレンス・ベンダーの関連で出演したものと思われます。

作品概要

白人と黒人を入れ替えた寓話

本作はアメリカ社会における人種問題をテーマにした社会派作品なのですが、白人と黒人を入れ替え、黒人が支配階層、白人が差別を受ける側という一風変わった建付けとなっています。

相手の立場になって考えろということを大掛かりに実践した映画だというわけです。

原題”White man’s burden”の意味

タイトルの”White Man’s Burden”とは「白人の責務」という意味で、『ジャングル・ブック』の著者として知られるラドヤード・キップリングが米比戦争について書いた詩『The White Man’s Burden: The United States and the Philippine Islands』(1899)がその語源です。

ここでのキップリングの主張とは、未開の地の蛮族を征服し啓蒙することが「白人の責務」だというもので、著作は白人国家による帝国主義と植民地政策を賛美する内容でした。

スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)において、主人公ジャックがバーで酒を飲む場面で”White man’s burden, Lloyd my man. White man’s burden”(白人の責務だ、ロイド)というセリフがあり、ジャックが酒に溺れる弱い自分を肯定する意味合いと、人種差別的な人物であることを示す意味合いで使われています。なお日本語字幕では「酒は白人の呪いだ、インディアンは知らん」となっているのですが、これは”White man’s burden”に該当する慣用句のない日本人向けの意訳でしょう。

以上、完全に余談でしたね。

DVD未発売という冷遇作

本作はローレンス・ベンダーが製作し、ジョン・トラボルタが主演しているのでそれなりの映画だとは思うのですが、日本国内ではDVD未発売で、どこかで放送される機会も少なく、鑑賞手段が非常に限られた作品となっています。

私はレンタル落ちVHSを手元に置いていますが、四半世紀も前にVHSがリリースされたっきりという扱いは何とも寂しいものです。

登場人物

  • ルイス・ピノック(ジョン・トラボルタ):製菓工場に勤務する真面目な白人男性。工場での昇進を目指してどんな仕事でも引き受けていたが、その姿勢が仇となって職場を解雇された。
  • タッド・トーマス(ハリー・ベラフォンテ):複数の事業を営む実業家の黒人男性で、ルイスの勤務する製菓工場も経営している。自宅に届け物に来たルイスが部屋を覗き見たものと勘違いし、工場の責任者にクレームを入れたことが原因でルイスは解雇された。その後、解雇の取り消しを求めるルイスからの直談判も受け入れず恨みを買うこととなった。
  • マーシャ・ピノック(ケリー・リンチ):ルイスの妻。幼い子供を抱えて家計は苦しく、自身も働きに出ることを提案するが、頑張って昇進するというルイスから反対されている。

感想

人種問題を冷静に見つめた作品

2020年5月25日にミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが警察官に拘束されている最中に死亡した事件をきっかけとして、世界中で人種差別への抗議デモが起こっています。そんな中で私が思い出したのが本作でした。

人種問題を扱う映画は多くあるのですが、本作の切り口はかなり独特。白人と黒人を入れ替えてお互いの立場を理解させるという試みをしている上に、監督は日系アメリカ人なのでどちらにも肩入れしていないような冷静さがあります。

人種問題を扱った作品で興醒めなのは、差別をする白人が人格破綻者に近いくらい悪く、それとは別に黒人を助けようとする正義の白人が現れるという構図であり、『ミシシッピー・バーニング』(1988年)や『評決のとき』(1996年)などはまさにそんな描き方でしたね。

しかし考えてみてください。一部のおかしい奴が差別している分には、不快ではあってもさほど問題ではないわけです。問題なのは社会に組み込まれた差別、普通の人が特に意識もないのにする差別です。

本作が優れているのは、そうしたものがしっかりと描き込まれているということです。

黒人が白人を差別しているパラレルワールドが舞台なのですが、白人に対して明確な憎悪がぶつけられたり、分かりやすい差別用語が使われることはありません。一生懸命頑張っていてもなぜか白人は昇進できない、道を歩いているだけで警察官から疑いの目を向けられるという薄い差別・薄い生き辛さがそこにはあります。

主人公ルイス(ジョン・トラボルタ)は勤務する工場の使いで黒人経営者タッド(ハリー・ベラフォンテ)に届け物をするのですが、ルイスに窓から室内を覗かれたと勘違いしたタッドは、工場長にクレームを入れます。

ここでタッドに解雇の意思があったわけではないのですが、クレームを受けた工場長は解雇の指示だと勘違いしてルイスを解雇します。しかし工場長にもルイスに対して害を為したいという積極的な意思があるわけではなく、「上がそう言ってるんだ。ごめんな」とルイスに解雇を伝えます。

食い扶持を失ったルイスはタッドの元に解雇を取り消すよう直談判に向かうのですが、誰だか分からない白人と話すのもアレだし(この時点でタッドは、ルイスが数日前に届け物をしに来た奴だということすら覚えていない)、めんどくさそうだからとりあえず断っといてと言ってタッドはルイスを門前払いにします。

一つ一つの事柄は深刻ではなく、積極的にマイノリティを差別しようとする者はいないのですが、全体としてマイノリティの存在が軽んじられており、いくつかの条件が重なった時に大きな歪が生まれる。人種問題を扱った映画でこうしたアプローチをとるものは珍しいのですが、そこには社会の一側面を的確に映し出すような鋭さがありました。

誘拐サスペンスとなる後半は月並み

工場を解雇されたルイスは家賃を払えなくなって我が家を追い出され、妻子からは別居を突き付けられます。真面目に生きてきたにも関わらずどん底に突き落とされたルイスは、再びタッドの元を訪れて、解雇により受け取れなかった給料を払えと言います。

しかしタッドには現金の持ち合わせがなく、金融機関も休みで月曜日の開店を待たねばならなくなったので、ルイスはタッドを誘拐し、月曜までの2日間を共に過ごすこととなります。

ここから作品は誘拐サスペンスに転じるのですが、社会風刺的な色合いの強かった前半と比較すると月並みな展開が多く、作品はやや精彩を欠きました。

ジョン・トラボルタは2年後に出演する『マッドシティ』(1997年)と同じく、不幸が重なって重大犯罪の当事者になってしまう小市民役が板についており、なかなかの演技派ぶりを見せるのですが、タッド役のハリー・ベラフォンテとの間で化学反応は起こっておらず、二人が織りなすドラマにはさほど見所がありませんでした。

共に過ごすことで相互理解が進むが、最後は悲劇で終わるという全体的な構成もありきたりで、物語はテンプレ通りに進んでいくので、後半部分には特に見るべきものがありませんでした。

※注意!ここからネタバレします。

甘くはないラストの余韻

ただしクライマックスで物語は息を吹き返します。ルイスとタッドの間に相互理解は進んでおり、タッドは白人の生き辛さを理解し、自分自身にその意図はなかったとはいえ、結果的に自分がルイスを追い込んでしまったことを詫びます。

その謝罪は誘拐犯を納得させるための口先だけのものではなく、本心からの謝罪ということが観客にも伝わってきました。

にも関わらず、ルイスが隙を作った数秒を突いてタッドは逃げ出します。

「お前、さっきまで反省してたよな?」と言いたくなるような急展開に呆気にとられると同時に、そう簡単に相互理解が進むはずがない、みな最後は自分のことしか考えないという現実の厳しさがここで描かれています。

積み上げてきたドラマ全否定のこの裏切りと後味の悪さは、鑑賞後にもいろいろ考えさせられる余韻を残しましたね。見事なオチでした。

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コメント

  1. 眞次 より:

    厳密に言うとフロイドは心臓麻痺で死亡したことになっている。 被害者の遺体を調べた検死官は、窒息死とは述べておらず、絞殺による死亡とも言っていない。

    という文章を読みました。

    フロイドは元々「動脈疾患」と「高血圧症」を患っていて、首を圧迫したことで間接的に心臓麻痺を起こさせた。と、そういう解説でした。

    『感想』の枕の部分は、もう少し幅のある表現の方がいいかもしれませんね。

    コメントは削除していただいて結構です。

    • 眞次様

      コメントいただき、ありがとうございます。
      また事件の詳細を教えていただき、ありがとうございます。

      ジョージ・フロイド事件の詳細を調べると、確かに仰る通りでした。
      誤解を招きかねない部分は書き換えておきました。

      ご指摘いただいたおかげで誤った情報を正すことができ、大変感謝しております。