死刑にいたる病_殺人ジャムおじさんvsFラン大学生【5点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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サイコパス
サイコパス

(2022年 日本)
阿部サダヲが連続殺人犯に扮したサイコサスペンス。阿部サダヲの気持ち悪い演技には一見の価値があるものの、ミステリーとしての引きは弱く、捻りのあるストーリーも面白さにはつながっていない。

感想

基本的に日本のテレビドラマを見ない私が、TBSで放送中の『不適切にもほどがある!』には珍しくハマっていて、主演の阿部サダヲ熱が高まってきたので、本作に辿り着いた。

軽妙な俳優として認知されている阿部サダヲがサイコキラー役という触れ込みで話題になった作品なんだけど、私個人としては、大河ドラマ『平清盛』(2012年)での清濁併せ呑む信西役のイメージが強いので、サイコキラー役にも違和感なかった。

本作の阿部サダヲは実に良い演技を見せる。

表面上は街の商店街のパン屋さんで、どちらかと言えば信用できる人の顔をしているんだけれども、内面は10代の子供を専門に狙うサイコキラー。その平凡な見た目とは裏腹に人心掌握術に長けており、他人を少しずつ懐柔し、やがて意のままに操る才能を持っている。

まぁ厄介な存在なんだけど、阿部サダヲが見事にその二面性を表現している。

そういえば、ロビン・ウィリアムズが『インソムニア』(2002年)『ストーカー』(2002年)など連続してサイコキラーに扮した時期があったけど、普段ニコニコしている俳優ほど、サイコキラーに扮すると「あ、やっぱりね」と思わせる妙な説得力がある。

良い人には本音が読めないところがあるし、温厚すぎてキレたらとんでもないことになるんじゃないかという恐怖もある。

幼少期の私は、毎週見るジャムおじさんやマスオさんにそこはかとない狂気を感じていたけど(両方とも声優が増岡弘さん)、その恐怖の根源とはこの感覚なのだろう。ロビン・ウィリアムズや阿部サダヲは、これを三次元の世界で具現化する俳優なのである。

白石和彌監督は、『凶悪』(2013年)においても鬼畜外道の不動産ブローカー役に善人顔のリリー・フランキーを起用していたし、この手のキャスティングが好みなんだろうか。

対するは岡田健史。事務所からの独立トラブルにより、現在は本名の水上恒司で活動しているイケメン俳優で、最近では福原遥とW主演した『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023年)が大ヒットした。私は見てないけど。

本作で岡田が扮するのは大学生の筧井雅也。元優等生だが高校時代に落ちこぼれ、現在は所謂Fラン大に通う大学生。期待通りに育たなかったことでモラハラ親父からはツラく当たられており、結果、異様に暗い人物像に仕上がった。

せっかくイケメンなのに辛気臭い顔で生活している岡田の元に、死刑囚の榛村大和(阿部サダヲ)からの手紙が届く。

中学時代の筧井は、逮捕前の榛村が経営するパン屋の常連客だった。親の期待に応えようと行きたくもない塾に通う当時の筧井にとって、榛村は数少ない心を許せる大人であり、若干の恩義も感じていた。

「確かに自分は大勢殺したが、一件だけは自分の犯行ではないので、真犯人を探してほしい」という榛村の主張に引っ掛かるもののあった筧井は、その調査に乗り出すというのがざっくりとしたあらすじ。

明晰な榛村の指示の下、隠されていた真相に徐々に近づいていく筧井。望んだ人生を送れず鬱屈とした日々を送ってきた筧井が犯罪捜査にやりがいを見出し、榛村との間にも連帯意識が芽生える。

ある事情から身動きの取れない天才に代わって、若者が犯罪捜査に乗り出すという構成は、「安楽椅子探偵」もののフォーマットの流用のようだ。特に『羊たちの沈黙』(1991年)とはよく似ている。

この流れならば、ついに筧井が真相に辿り着き、真犯人を逮捕するという結末を期待するところだが、そうはいかないのが本作の憎いところ。

ネタを明かすと、榛村は若者を拷問して殺害することと並んで、他人を意のままに操ることも至上の喜びとしていた。そして自身が関わっていないと主張する一件の殺人も、彼が影響を及ぼした人物による犯行だったし、こうして筧井を動かしていることもまた、榛村にとっては娯楽の一種だったのである。

榛村のモデルはテッド・バンディだとネット記事で読んだような気がするけど、バンディは他人を支配する快楽を得るために殺人を行うタイプのサイコキラーだった。榛村は服役囚になってなお、他人に対する支配欲を充足しようとしていたというわけだ。

なるほど、捻じれてはいるが合理的な展開だなと納得はできたけど、これが映画として面白かったかと言われると、それほどでもない。

阿部サダヲの怪演と比較すると岡田健史が弱い。決してヘタというわけではないのだが、見る者にインパクトを与えるレベルでもなく、平凡な若者が狂気に飲まれていく様が見せ場として機能していない。

山田孝之がリリー・フランキーに飲まれていく『凶悪』(2013年)と比較すると残念なレベルだった。比較対象のハードルが高すぎたのかもしれないけど。

筧井の母(中山美穂!)と榛村との関係や、筧井の出生の秘密など、結末から振り返ると重要ではない枝葉のために、主題への集中が妨げられるという構成上の問題もあった。2時間強の映画の割にはサブプロットを詰め込みすぎなのだ。

あと細かい部分が雑。

調査のスタート時点で、筧井は榛村の弁護人の事務所を訪れる。そこで事件のファイルを見せてもらうんだけど、弁護士が依頼人の知り合いを名乗る大学生に資料を提示することなんてありえないだろう。

しかも目の前で閲覧させるわけでもなく、通した会議室にファイルを運び込むと、「後はご自由に」という感じで部屋を出て行ってしまう。資料をスマホで撮影しまくる筧井。

原作だと、この弁護士もまた榛村の影響下にあって、資料の漏洩も意図的に行ったことのようだが、映画版では榛村との関係がなかったことにされているので、ただの浮世離れしたお間抜け弁護士になっている。

また調査の過程で筧井は弁護士事務所の名刺を勝手に作り、これを見せることで様々な人からの聞き込みを進めて行くんだけど、弁護士でもない若者に対して、名刺一枚で警戒心を解いて何でもベラベラ喋ってくれるなんて、普通はありえない。

そうした細かい部分のリアリティの欠如が、全体としての説得力の無さに繋がっていた。

あと、最後に「実は私も榛村メイト」と正体を現す彼女は蛇足だったかな。構成上、さほど重要な立ち位置にもいなかったので、彼女の正体はさしてサプライズにもなっていない。

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コメント

  1. 匿名 より:

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