スーパーマン(2025年)_純粋まっすぐな力持ちは怖い【7点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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DCコミック
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(2025年 アメリカ)
スーパーマンが国際紛争に積極的に関与するという、割と深いテーマを扱ったDCU第一回作品。正義を巡る議論には真に迫るものがあったし、同時にユーモアやヒーロー映画としての爽快感も忘れないジェームズ・ガンの構成力・演出力には舌を巻く。ただしうますぎてガンの持ち味がやや薄まっていることは気になった。

スーパーマンという難企画

公開日にIMAXで見たんだけど、2か月も放置してしまった。

今更感想を書くけど、いろいろ忘れてるかもしれない点はご容赦いただきたい。

アメコミヒーローの元祖にして、ダントツの知名度を誇るスーパーマンだが、リチャード・ドナーが監督した『スーパーマン』(1978年)がその実写化企画としてほぼ正解を出してしまったことから、以降の映画は苦労し続けてきた(個人的にドナー版をそれほど面白いとは思わないが、実写化フォーマットとして完璧だったことは否定できない)。

後続作はリチャード・ドナーのやり方を踏襲するか、別物にするのかの二択のみとなったのである。

この点、ドナー版を丁寧に踏襲した『スーパーマン リターンズ』(2006年)は模倣の先に描くべきテーマを見いだせず一本限りで終わり、『ダークナイト』(2008年)に寄せた暗い作風で挑んだ『マン・オブ・スティール』(2012年)にはコレジャナイ感が漂っていた(個人的には好きだけど)。

加えて、スーパーマンという異様に強いヒーローのマッチメイクにも苦労が付きまとう。ヒーローを苦しめられるほどのパワーを持つ敵が、まぁいないのである。

かといってクリプトナイトを近づけられて悶え苦しむスーパーマンの図にはもう飽き飽きだし、強いヒーローを弱くして敵の戦力とどっこいにするというアプローチには見せ場の勢いを削ぐ効果しかない。

そんなわけで料理の難しい素材ではあるのだが、そうはいってもDCユニバースはスーパーマン抜きでは客が納得しない。

ライバルMCUが一大ユニバース化に成功した一方、DCがユニバース化に苦労しているのは、その先頭に立つスーパーマンがとにかく難物すぎるからだろう。

強すぎず欠点もあるスーパーマン

と、長い長い前置きを書いてしまったが、こうした問題に対してジェームズ・ガンは見事な答えを出した。

「スーパーマンは強いけど強すぎない」という絶妙なラインを提示したのである。

舞台となるのはメタヒューマンが割と当たり前に存在する世界。スーパーマンは唯一無二の存在ではないことがテロップにて説明された直後、戦いに敗北したスーパーマンが空から降ってくる。

スーパーマンを倒せる敵がいる!

この世界のルールを冒頭でバーンと提示してみせたジェームズ・ガンの構成力が光る。

さらにスーパーマンはもう一つの強敵と対峙することになる。それは「悪意」である。

フィジカル面では屈強であっても、メンタル面では善良な青年でしかないスーパーマンは、力でねじ伏せることのできない悪意との戦いに疲弊し、いったんは戦う意義を見失う。

これはスーパーマンのマッチメイクとして合理的だったと同時に、現代的なアプローチでもあり、非常によく考えられた構成だと感心した。

自身もディズニー解雇騒動でいろいろ思うところがあったであろうジェームズ・ガンは、個人的な経験も込みで作品の幅を広げていく。

スーパーマンにも未熟な面はある。「困ってる人がいれば助けにいくのが人情でしょ」と言って複雑な国際情勢にも深く考えずに干渉してしまい、「国の許可とったのか?」と糾弾されるのである。

またこの世界にはジャスティス・ギャングというヒーローユニットも存在しているのだが、大衆ウケを意識した嫌な野郎の集まりであるジャスティス・ギャングの活躍を、スーパーマンは内心で認めていない。

「本当の正義を為しているのは俺だけ!」「俺がやらなきゃ誰がやる!」という自負心の中で必要以上の重荷を背負った状態となっているのが、本作のスーパーマンなのだ。

そんなスーパーマンが危機に陥った後に、正義の執行方法に対して柔軟になるのが、2時間をかけて描かれるドラマツルギーなるものだ。

レックス・ルーサーの動機は合理的

そして正義の執行方法を巡る本作の議論は、ヴィランとなるレックス・ルーサーの動機にもつながっていく。

端的に言うと、ルーサーはスーパーマンをヤベェ奴だと思っているのだ(この辺りはスナイダー版のレックス・ルーサーと通底している)。

こいつにはこいつなりの野望があって、裏で悪さもしてるんだけど、スーパーマンを敵視する姿勢はそうした悪さとは一線を画した、本当にヤベェ奴じゃないのかという警戒心から来ているものだ。

悪と見做した国家元首をさらってお仕置きしたり、国家間の諍いで弱者と見做した側に付くなど、スーパーマンの正義の執行方法は稚拙だし、一方的に正しいと信じることに向かって猪突猛進する怖さもある。

スーパーマンの力が、いつアメリカ合衆国に向かってきてもおかしくはないのだ。

ルーサーがジャスティス・ギャングに興味を示さずスーパーマンだけを敵視しているのは、善悪二元論すぎて歯止めが利かなくなるんじゃないかという懸念があってのことだと思うし、私にもその感覚はよく理解できる。

適度に世俗に染まってくれているジャスティス・ギャングには交渉の余地が残っているが、スーパーマンとは話し合いが成立しなさそうだ。

そんな奴が異様な力を行使しているのは、見方を変えれば恐怖でしかない。

ルーサーは、まだ何とかなるうちにその芽を摘もうとしているのである。

スナイダー版と通底するテーマ

こうして書き出してみると、スーパーパワーを脅威と見做す、純粋無垢すぎるスーパーマンをヤベェ奴だと考えるというシナリオはザック・スナイダー版を大きく踏襲したものである(特に『バットマンvsスーパーマン』)。

志半ばで頓挫したが、DCEUが目指していた方向はあながち間違ってもいなかったんじゃないか。

そういえば、ジェームズ・ガンとザック・スナイダーは『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)において監督と脚本家の関係性で共同作業にあたっており、二人の価値観は似ているのかもしれない。

ただしスナイダー版の暗い作風が観客から受け入れられなかったことを踏まえてか、ジェームズ・ガンは常にユーモアを忘れず、明るい作風を維持している。

描かれる内容は割と深刻なんだけど(何せパレスチナ戦争がモロに反映されているのだから)、そこに遊びをいれてヒーロー映画として見事にパッケージ化しているのがガンの妙技だと言える。

ただしうますぎてガンの個性が埋没しているようにも感じるし、思いっきりエッジを立ててきたスナイダー版の方が個人的には好きなんだけど、ユニバースの開始地点としては、美しくうまく無難にパッケージ化する以外になかったんじゃないか。

芸術作品であり商品でもある映画とは難しいものだ。

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