キング・オブ・コメディ_他人事ではないイタさ【8点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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(1982年 アメリカ)
コメディアンに憧れ、いつか自分も彼らのようになれると思っている男・ルパート・パプキンは、偶然にも有名コメディアン・ジェリー・ラングフォードの車に乗り込んで、話しをする機会を得る。ジェリーに認められたと思い込んだパプキンは、「いつ自分をテレビに出してくれるのか」と、ジェリーの事務所を毎日訪れるようになる。

©Twentieth Cetury Fox

スタッフ・キャスト

監督はマーティン・スコセッシ

1942年ニューヨーク出身。現代最高の映画監督の一人で、アカデミー監督賞にノミネートされること8回、『ディパーテッド』(2006年)で受賞と、70年代から2010年代までトップを走り続けています。

同じくニューヨーク出身のイタリア系監督ブライアン・デ・パルマから紹介されたロバート・デ・ニーロとのコンビで本作を含む8作品を製作しており、9作目となる最新作『アイリッシュマン』(2019年)が2019年11月27日にNetflixで配信予定となっています。こちらはデ・ニーロに加えてアル・パチーノ、ハーヴェイ・カイテル、ジョー・ペシが出演する3時間30分の大作で、えらいことになっていそうです。

主演はロバート・デ・ニーロ

1943年ニューヨーク出身。稀代の演技派俳優で、アカデミー賞に7度のノミネートと2度の受賞歴を持っています。『ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974年)に出演するためシチリア島で生活してシチリア訛りのイタリア語を身に付ける、『タクシードライバー』(1976年)に出演するためタクシードライバーとして働く、『レイジング・ブル』(1980年)でボクサーの引退後の姿になるため20kgも体重を増量するなど、その普通ではない役作りはデ・ニーロ・アプローチと呼ばれています。本作においても、数か月に渡ってスタンダップ・コメディアンのステージを鑑賞してパフォーマンスを研究しました。

イタリア風の名前で、しかもマフィアを演じることが多いためにイタリア系と思われがちなのですが、実はイタリア、アイルランド、イングランド、ドイツ、フランス、オランダの血が入っています。代表作のひとつ『グッドフェローズ』(1990年)では、アイルランド系であるためにマフィアの幹部に昇格できないジミー・コンウェイ役を演じていましたね。

志村けんにも影響を与えたジェリー・ルイスが大物コメディアン役

1926年ニュージャージー州出身。父親がヴォードヴィル芸人だった関係で5歳から舞台に立っており、1946年にディーン・マーティンと結成した「底抜けコンビ」が大人気となりました。彼の演じたバカキャラは、志村けんのバカ殿の着想の元になったとも言われています。チャリティ活動にも熱心で、筋ジストロフィー患者支援のため1966年に創設したチャリティテレビキャンペーン番組『ジェリー・ルイスのレイバー・デイ・テレソン』は、日本テレビの『24時間テレビ/愛は地球を救う』の原型ともなりました。

製作はアーノン・ミルチャン

1944年イスラエル出身の映画プロデューサーで、『未来世紀ブラジル』(1985年)、『プリティ・ウーマン』(1990年)、『沈黙の戦艦』(1992年)、『ヒート』(1995年)、『L.A.コンフィデンシャル』(1997年)、『ファイト・クラブ』(1999年)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)と、おびただしい数のヒット作・名作を送り出してきました。直近ではブラッド・ピットと共に『アド・アストラ』(2019年)を製作しています。本作は、彼が率いるリージェンシー・エンタープライズの第一回作品となります。

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登場人物

  • ルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ):芸人志望の34歳実家暮らし。大スター・ジェリー・ラングフォードとたまたま話す機会を得て友人になったと勘違いし、このご縁を機に芸人としても花開くと妄想を爆発させる。
  • ジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス):大物コメディアンだが、私生活は孤独で舞台を離れると一切笑顔を見せない。最初はジョニー・カーソンが検討されていたが、最終的にジェリー・ルイスに落ち着いた。中盤にて彼が街を歩く場面で映るのは一部の俳優を除いて実際の街の人たちであり、この場面のために役名がルイスに合わせてジェリーに変更された。
  • リタ・キーン(ダイアン・アボット):パプキンの高校時代の同級生であり、チアリーダーで学園のマドンナ的存在だった。現在はバーで働いており、そこに10数年ぶりにパプキンがやってきて「ジェリー・ラングフォードと知り合いだ」と言い出したことから、半信半疑でパプキンとの関係が始まった。演じるダイアン・アボットは、当時のデ・ニーロの奥さん。
  • マーシャ(サンドラ・バーンハード):パプキンと共にジェリーの追っかけをしているが、精神を病んでおり、自分はジェリーの恋人だと思い込んでいる。裕福な家の生まれのようで、自身は仕事をしていないにも関わらず高級マンションに住んでいる。元はメリル・ストリープにオファーしていたが、断られてテレビ女優だったサンドラ・バーンハードがキャスティングされた。

感想

パプキンのイタさが見ていて辛い

主人公は芸人を夢見る男・パプキン。34歳、実家暮らし、定職には就かずたまにメールボーイのバイトと、完全に人生詰んでいます。有名人の追っかけに時間と労力の大半を費やしているのですが、憧れと暇が過ぎたためか、有名人に親近感を抱くというレベルを通り越して、知り合いじゃないかという錯覚を抱き始めています。学生時代にアルバイトしていた居酒屋で、矢沢永吉が好きすぎて「永ちゃんは俺のツレ」とマジ面で言っていた常連のおじさんがいましたが、熱心なファンってそうなっていくものなんでしょうか。

ある日、憧れの大スターであるジェリー・ラングフォードの車に乗り込むという偶然にありつけたパプキンは、自分はコメディアンを目指しており、十分にやれる自信はあると自分を売り込みます。

一方、若手の売り込みに慣れたジェリーは、この手合いをはっきり否定すると食い下がってきて面倒くさいということが分かっているので、「簡単な芸だと思われているが、実は大変な世界だ」「君はどこかのステージに立って技を磨いているの?」と、やんわりと「あなたはそのレベルに達していない」ということを伝えようとします。しかしどこまでもポジティブな男パプキンは、素人を諭すためのジェリーの言葉をプロとしてのアドバイス、または同業者相手の心境の吐露として受け取ってしまいます。

伝わっていない…。困ったジェリーは、「事務所に君の芸のテープを送ってくれ。部下が受け取るから」と言ってその場を凌ぎます。しかしパプキンは、業界へのコネができた!あとは売れるだけ!と有頂天になるのでした。

この噛み合わない会話は見ていて本当に辛かったです。なぜ辛いのかって、パプキンは迷惑なんだけど悪気はないからです。迷惑をかけているという自覚がないのに周りをどんどん引かせていく人を見るのはとても心が痛みます。同時に、迷惑をかけられる人を見ていても辛くなります。相手を傷つけないよう言葉を選んでるんだけど、その遠回しな表現が勘違いを拡大させていくという悪循環。どちらの当事者にも悪気はない中で、どんどん溝が深まっていくのでした。

パプキンの妄想癖がちょっと理解できてしまう自分がイヤ

すでに業界人になったつもりのパプキンは、事あるごとに妄想の世界へと突入していきます。いくら断っても君に番組を引き継がせたいんだと言って聞かないジェリーや、君を見くびっていた我々が完全に間違っていたと謝罪してくる高校時代の校長先生など、そのたくましい妄想力は作品の大きな見せ場となっています。

自室に作った書割のスタジオでのごっこ遊びが…
パプキンの脳内ではこんな感じになっている。

ただし、私はこれを笑えませんでした。誰にだってちょっとした妄想に浸る瞬間があるからです。仕事を賞賛される様をたまに妄想していることなんて、なんらパプキンと変わらないじゃないかと怖くなりました。

『タクシードライバー』(1976年)もそうでしたが、スコセッシの映画には観客が劇中のサイコパスと自分を同一視できるような絶妙な温度感があります。最終的には政治家の暗殺や有名人の誘拐など突拍子もない行動に移るのですが、その入り口には誰しもが抱く孤独感や承認欲求というものがあるので、観客は「もし不運な要因が重なれば、自分もこうなってしまうのかもしれない」という恐怖を抱きます。

スコセッシは自分自身について「気難しいし、怒りっぽい」と言っているし、敬虔なカトリックなのに5度の結婚歴があったりで、相当に闇の深い人物なのだろうと推測します。そうしたアブナイ監督が描くからこそ、サイコパスは生き生きとしているのかもしれません。

リタという客体の存在

パプキンがどんな人生を送って来たのかについての説明はないのですが、前述した校長先生絡みの妄想より、同級生からはいじめられ、異性からは鼻にもかけられず、教師たちからはバカにされてきたという過去が透けて見えてきます。そういえば、スコセッシは主人公の幼少期から描くことが多いのですが、『タクシードライバー』や本作のようなサイコパスを扱った作品では、過去にほとんど触れず現在のみを描くという方法を選択しますね。いま気付きました。生い立ちを掘り下げすぎないことで、観客がキャラクターと自己を同一視するという効果を狙っているのでしょうか。

何も誇れることのないコンプレックスだらけの少年期・青年期を送ったパプキンは、学校という強制参加のコミュニティがなくなった途端に妄想の世界に引きこもり、イヤな情報からは目を背け、耳を塞ぎ、誰も認めてくれないのなら自分で自分を認めるしかないという究極の自己防衛をして現在までの10数年を過ごしてきたのだろうと思います。これもまた憐れではありませんか。

しかし、ジェリーと知り合いになったと錯覚した時点から、パプキンの引きこもり人生は終わりました。高校時代には高嶺の花だったリタが働くバーへと意気揚々と乗り込み、「俺はビッグになるぜ」と言ってデートに誘います。パプキンは迷いなくリタの店へ行けたのに、リタはパプキンを一目では認識できなかったという点が泣かせます。パプキンは、高校卒業からの10数年間は陰ながらリタの行く先をチェックし続けていたが、自信がないために一度も目の前に姿を現わせなかったんだろうというバックストーリーが伺い知れるからです。そして、このリタの存在が結構なポイントになっています。

高嶺の花・リタ。演じるダイアン・アボットは当時のデ・ニーロの奥さんで、『タクシードライバー』(1976年)ではトラビスのナンパを取り付く島もなく断る映画館の売店係役で出演していました。

だいの大人に対してズバっとものを言える人はそうそういません。ジェリーも、事務所の受付のおばちゃんも、アシスタントの女性も、守衛のおじさんも、パプキンに対してはっきりとした物言いをしません。赤の他人、しかもアブナイ人に対して、反発を受けるリスクを冒してまで分からせてやろうなんて誰も考えないからです。せいぜい「目の前から消えてくれないかな」と内心思う程度です。しかし高校時代の同級生であるリタだけは違いました。パプキンの大言壮語に対して「本当なの?」とはっきりとした疑問を呈し、客観的な意見をぶつけられる知り合いとして機能していました。

リタの気を惹こうとしている時点のパプキンには、まだ何とかなる余地がありました。はっきりとした物言いをしてくる相手を納得させなきゃいけないという制約条件があったからです。リタとの関係がうまく推移していれば、もしかしたら実社会に戻ることができたかもしれません。しかし『タクシードライバー』のトラビスの如く、パプキンは女性関係をうまくコントロールできずに破滅の道へとシフトしていきます。

マーシャという決定打

「ジェリーの別荘に招待された」という妄想に巻き込まれて赤っ恥をかかされたリタは、パプキンの元を去って行きます。そこからパプキンはマーシャという女性へと急接近していきます。

マーシャはパプキン同様に有名人の追っかけをしている女性で、二人は従前より友人関係にありました。しかし、ジェリーを恋人だと思い込んでストーカーをしているマーシャはパプキンの目から見ても異常であり、実際にジェリーとの接点を持って以降、パプキンはマーシャを遠ざけていました。ところがリタに去られてジェリーを逆恨みしたパプキンは、このマーシャと結託します。マーシャはアブナイ奴だと分かっていたにも関わらず、同じ方向に捻じれた者同士の居心地の良さを選択してしまったのです。

ド迫力のマーシャ。

類は友を呼ぶと言うべきか、例えば仕事で行き詰っている時には、自分と同じように行き詰っている同僚と親しくなり、二人で連日取り留めもなく会社や上司や出来ている奴への愚痴を言い合うような非生産的なモードに入ることがあります。しかし、似ている者とくっつくことには、どんどん閉塞状態に陥って抜け出せなくなるような怖さがあります。愚痴っていく中で成長の芽がどんどん摘まれていき、集団からは孤立し、その場で強烈な腐臭を漂わせるようになるのです。

マーシャと過ごすことの居心地の良さを選んだ時点で、パプキンの運命は決まりました。二人はお互いの妄想はウソだと言い合いながらも、ジェリーという目的物を誘拐するという共通の目的のために行動し始め、「迷惑な人」から「犯罪者」へと変容したのです。

ラストは現実か、妄想か

犯罪者になってしまったパプキンは逮捕され、有罪判決を受けます。しかし、電波ジャックしてまで放送した一夜限りのテレビ出演は話題となっており、獄中で執筆した自伝はベストセラーに。出所後にはコメディアンとしてステージに立ったところで、映画は幕を閉じます。

このラストは現実なのか、妄想なのか。スコセッシはその問いに答えていません。普通の映画文法からすれば、劇中何度もパプキンの妄想を見せているのだから、このラストも妄想だと考えるべきです。何の断りもなしに、ラストのみ規則性が変わるということはありえませんから。ただし、パプキンがハッピーになったんだという気分に浸りたい時もあります。その際の解釈の余地が残っているのが、この曖昧なラストの良いところです。

そういえば、デ・ニーロとアーノン・ミルチャンは、次作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)でも、現実とも妄想ともつかない曖昧なラストを提示しましたね。こういうのが好きなんでしょうか。

言葉の壁がもどかしかった

本作の理解において重要なのは、パプキンの冗談が面白いのかどうかという点です。字幕を読む限りではくだらないアメリカンジョークだったし、作品中でもパプキンの冗談はつまらないというセリフが多く、たまにその冗談で笑う人がいると周囲から奇異の目で見られることからも、パプキンが才能のない人として描かれていることは間接的に理解できました。でも、できれば直接的に分かりたかったですね。こんなつまらないことを言ってる人間が、自分をキング・オブ・コメディであると信じているのかと。そこにもののあわれが宿っていたはずなのです。

まとめ

パプキンのイタさ。これが本作の最大の売りです。「自分は認められていないだけで、何者かになれるはずなんだ」という自意識のみが肥大化しているが、厳しい環境で自分の可能性を試したことはない。そんな男の憐れなドラマには、誰しもが身につまされる部分があるのではないでしょうか。きわめて特殊なシチュエーションのドラマを、誰もが身近に感じられる間口の広いテーマに置き換えたスコセッシの手腕が光っています。

そして、パプキンの物語は『ジョーカー』(2019年)へと繋がっていきます。憐れな男の悲喜劇は永遠に続いていくのです。

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