孤独なふりした世界で_最後まで見れば面白い【5点/10点満点中】(ネタバレあり・感想・解説)

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終末
終末

(2018年 アメリカ)
ポストアポカリプトものの映画なのですが、目を引くような見せ場も激しいドラマもなく、常識的な主人公二人の淡々としたドラマがひたすら続きます。基本的には退屈で面白くない映画なのですが、終盤で姿を現す主題部分のみよく出来ているので、前半の退屈さを我慢するだけの価値はあります。

あらすじ

人類が全滅した未来。生き残った男デル(ピーター・ディンクレイジ)は街の清掃をし、死体を片付ける日々を送っていた。もはや他に人類はいないと思っていたある日、交通事故を起こした車に遭遇。中にはグレース(エル・ファニング)という若い女性が乗っていた。グレースはデルとの生活を望み、当初はペースを乱す同居人を好ましく思っていなかったデルも、グレースを受け入れることにする。

スタッフ・キャスト

監督はカメラマン出身のリード・モラーノ

1977年ネブラスカ州オマハ出身。キャリアのメインは撮影監督であり、2013年には最年少でアメリカ撮影監督協会に入会。撮影監督としての代表作は荒涼としたネイティブアメリカン居留地を舞台にした『フローズン・リバー』(2008年)です。

その後監督業にも進出し、Huluの人気テレビドラマシリーズ『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(2017年-)の数エピソードの演出で高い評価を得ました。

主演は『ゲーム・オブ・スローンズ』のピーター・ディンクレイジ

1969年ニュージャージー州出身。小人症であり、132cmの小さな体を活かして数多くの作品に出演。

HBOの大ヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(2009-2019年)では主人公のひとりティリオン・ラニスターを演じて人気を博し、エミー賞を合計で4度も受賞しました。

共演は『スーパー8』のエル・ファニング

1998年ジョージア州出身。姉は女優のダコタ・ファニングで、ダコタが主演した『アイ・アム・サム』(2001年)でのダコタの幼少期役で女優デビューしました。

『バベル』(2006年)でブラピとケイト・ブランシェットの娘役を演じたあたりからダコタ・ファニングの妹という看板が外れ始め、J・J・エイブラムス監督の『SUPER8/スーパーエイト』(2011年)の学校のヒロイン役でブレイクしました。

作品概要

ポストアポカリプト映画の系譜

本作の属するポストアポカリプト映画は息の長い人気を誇るジャンルとなっています。

『ゾンビ』(1979年)、『マッドマックス2』(1981年)『ウォーターワールド』(1995年)、『ポストマン』(1997年)等々、1970年代末から1990年代にかけては法や文明というタガが外れた世界で、ヒャッハーが群れをなして平和なコミュニティを襲ってくるという内容が繰り返し製作されました。この頃のポストアポカリプト映画は大規模な舞台と大掛かりな見せ場を売りにしたスペクタクルの要素を強く持っていました。

これが『トゥモロー・ワールド』(2006年)や『アイ・アム・レジェンド』(2007年)あたりから主人公の内省的な旅という路線へのシフトが始まり、コーマック・マッカーシーによるピュリッツァー賞受賞小説を映画化した『ザ・ロード』(2009年)がその決定打となりました。

さらに『ザ・ロード』が革新的だったのは薄曇りの野山というありふれた光景を破滅後の世界に見立てたビジュアルの力であり、もはや大規模な廃墟のセットも、VFXも必要ないというポストアポカリプト映画の新時代の嚆矢となりました。

こうして製作に金がかからないジャンルとなったことから、作品の量産が始まります。『THE DAY』(2011年)、『ディヴァイド』(2011年)、『HELL』(2011年)など異様に多くのポストアポカリプト映画が製作され、一時期、TSUTAYAの棚はこの手の映画だらけになっていました。

2010年代後半になると更なるミニマル化、というかミニマム化が始まります。『死の谷間』(2015年)『ユピテルとイオ』(2016年)『すべての終わり』(2018年)など、もはや小規模なアクションすら描かれない、ひたすら内省的なドラマを描くだけのジャンルになったのです。

本作もそんな流れの中で製作された一作です。

感想

睡魔との戦いだった93分間

本作の上映時間は93分とかなり短い部類に入る作品なのですが、それでも内容はスカスカで鑑賞中には睡魔との戦いでした。

上述した『死の谷間』(2015年)『ユピテルとイオ』(2016年)にも当てはまる傾向なのですが、ぎゅっと詰めれば30分もかからない話を長編の上映時間に引き伸ばしているので、恐ろしいほど映画に動きが少ないのです。

冒頭では『アイ・アム・レジェンド』(2007年)のように主人公デル(ピーター・ディンクレイジ)の日常が淡々と描かれ、最初のセリフが発せられるまでに実に13分も無言の時間が続きます。この13分間の時点ですでに心が折れそうになりました。

グレース(エル・ファニング)が現れたことで話が進み始めるのかと思いきや、重度の人嫌いであるデルは数年ぶりに人と会い、しかもその相手が美人の異性なのに特にテンションが上がることもなく、多くを語らないという姿勢を崩しません。

自分が人類最後の生き残りだと思っていたデルの立場であれば、グレースは一体どこからやってきたのか、今まで何をしてきたのか、他に生存者を見たのか、我々が生存できた要因は何だと思うのかなど、いろいろ聞きたいことはあると思うのですが、そういった当然の情報交換すらしようとしません。

またしても始まる静寂と、ドラマに明確な方向性もないまま同じ光景が繰り返されることの退屈さ。しんどかったです。

犬を巡ってのデルとグレースの諍い、デルが人嫌いになった理由、デルが元実家には足を踏み入れてこなかったことなど、申し訳程度にイベントが挿入されているものの、デルもグレースも異常なまでの常識人で感情を爆発させることも、欲望を口にすることもないので、観客の注目を引くほどの大きな流れは生み出せていません。

※注意!ここからネタバレします。

終盤のみ面白い

そんな感じでダラダラと続く物語なのですが、ラストの急展開のみ見応えがありました。

デルが帰宅するとグレースの他に中年男女が座っていました。彼らの名前はパトリック(ポール・ジアマッティ)とヴァイオレット(シャルロット・ゲンズブール)。生き残りはまだまだ居たのです。

彼らはグレースを無理やり車に乗せて連れ帰り、デルはグレースを取り戻すべく彼らの後を追うのですが、そこに広がっていたのは復興した街でした。

主人公が自分は人類最後の男であると思っていただけで、実は他にも生存者が大勢いて、すでに新たなコミュニティが形成されていたという『アイ・アム・レジェンド』みたいなオチにはかなり意表を突かれました。

このコミュニティの人々は過去の記憶を消し去り、生存者同士で疑似的な家族を形成して新しい生活を始めていましたが、グレースはそれに反発して荒野に逃げ出したのでした。

この街を代表するパトリックは、デルとは対照的な思考の持ち主です。

朽ちていく街で元住人達の死体やその思い出と向き合いながら生きるデルに対して、カタストロフの記憶を取り払い、荒野の中に作った小さなユートピアで厳しい現実から目を背けて生きるパトリック。

この辺りは、青いカプセルを飲んで平穏無事な虚構の世界に戻るか、赤いカプセルを飲んで辛い現実の世界を知るかという『マトリックス』(1999年)にも通じるものを感じました。

作劇上は虚構に生きるパトリックが悪者のように描かれていましたが、彼の気持ちは分からんでもありません。

地球的な災厄で愛する家族を失った経験があまりに辛すぎて、その記憶をすっぱりと消し去ってしまいたい。今ある選択肢の中で得られる最大限の幸福にすがり付きたいという思いは極めて人間的ではありませんか。

もし自分がデルやパトリックと同じ立場に置かれた時にどちらの選択をするのだろうかと、鑑賞後にもしばらく考えさせられる深みがありました。

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